テーマ:四季
徒々兎人 様
『角部屋のカレイドスコープ』
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第1話 /
第2話 /
第3話 /
第4話 /
第5話
第1話
元より、実るなどとは思っていない恋だった。
『軟弱過ぎる。ライダーになる奴が情けで戦えないのは論外だろうが』
いつも通り怒っている視線と、容赦ない調子の物言い。
それでも捨て置きはせず、睨み付けたまま手を貸しもせず、倒れた相手が立ち上がるまで待ち続ける。
そのようにされたのは、そのようにした『心を感じる』ことの出来る人間だった。それ故に自分へ向けられる怒りも、呆れも理解している。
だけれど、その刺々しい感情の中からは僅かにでも確かに……模擬戦一つさえ積極的になれない自分を、真摯に心配する心が見え隠れしていた。
そのぐらいいつも真っ直ぐで、嘘が無くて、何をも裏切るまいと志す心を深水紫苑は識っている。
誰かのためにさえ怒ることの出来ない自分を恥じる彼にとって、あの心は涙の水圧に潰される底からでも見え続けた光だった。
(……会うこととか、もう無いんだろうなって思ってたけど。同じ街に居るのなら、結構度々会うことになるのかな。これからも)
いつも誰かのために怒っていた、その義憤に身を固め誰をも寄せ付けまいとしていた同期。
人を助けることを志しているのだから、人の手を借りなければ立ち行かないなど言語道断。そのような考えを言葉でも行動でも隠さない、大変に無愛想なルームメイト。
不実や不義を過敏に嫌う人でもあり、親しげで明るい態度を取られる度に刺々しく拒む。何の志も無く示される圧倒的な能力にも、何度となく憤りを露わにしていた。
その余裕の無さは、全てに向かう真摯さを本質としている。誰かのための行いは瑕疵無く為そうと努めるべきだと、信念を以てその実現を目指し続けていた。
誰とも距離を置きながら、誰をも真剣に気に掛ける。そんな不器用で生真面目な姿に恋をして、あの姿を自壊から守りたい想いにこそ支えられた。
(高塔くんはしっかりしてるし、荒鬼くんも神威くんも阿形さんも逞しいし、魅上くんは強いし、伊織くんはポジティブだから……何とかなってるんだろうけど)
身一つで放り出されてこのまま野垂れ死にかと思う中、人の優しさに助けられる。
そんな経緯を経た紫苑は、一先ずシニアホームで住み込み働きをすることになった。
誰かと競うか争うことは大変に苦手だが、そうではない状況なら根の剛毅さが発揮される。短期間で激変した環境は、以前よりも彼の肌に合っていた。
自分以外にもあと七人は同じ状況になった筈だけど、全員自分より心根が『強い』のだから生きてはいるだろう。取り敢えず、そんな風に考えることにする。
「今頃、どうしてるのかな────蒲生くん」
先行きは全くの不透明、と言うか少し前まで認識していた先行き自体が植え付けられた虚構だったらしい。先はおろか、そうなる以前の半生さえも悉くが。
外へ出るにも許可の要る日々とは違い、何となく夜空を見てそう呟ける自由を得られた。日給で雇われる形にして貰ったから、取り敢えずの生活費も工面出来る。
自分はそう思うとそれなりに気楽になれる質だけれど、同室の同期である彼は。紫苑の密かな想い人は、定まった道を行くことに努めていたから多少心配だった。
(寝る時も起きる時も一人なのは、二年ぶりだと思うけど……『本当は』どうなのかも、もう分からなくなっちゃったんだよね)
一般市民より選ばれて全寮制の訓練学校に入り、二年のカリキュラムを経て政府特務機関へ配属される。方々の戦場へ赴き、無辜の人々を守るために。
座学や野球などの体育から武器による模擬戦や野外サバイバルまで、過酷な日々を『誰かのために』乗り越えた。
それを誰よりも真剣に志し、それに見合う成果を出そうとし続けた姿を覚えている。虚像の中で過ごした二年間が、今となっては希少なありのままの記憶だった。
そう、虚像だ。誰かのための行いをしたく思う心は、初めから裏切られていた。ほんの二年より前の記憶が、そのような悪意によって改竄されてしまっている。
かつて住んでいた家の所在すら全くの出鱈目だったのだから、選抜に合意した記憶も虚偽なのだろう。そのような身のまま、運良く現実へと脱け出せた。
(……それでも。みんなの誰かを助けたいと思う心だけは、嘘じゃなかった)
他者の心に寄り添おうとすれば、自然とその内実を感じられる。
それが深水紫苑のいつ身に付いたのかも分からない、人の行いの本質を識る『特技』だった。
決して万能ではなく、寧ろ背信や悪意に人一倍傷付いてしまう諸刃の感覚だけれど……それが有るからこそ、あの刺々しい心の懸命さに気付いている。
あの心はきっと、まだ志を捨てていない。来た道が虚飾であっても行く先は同じだと、今でもその道を歩もうとしている筈だ。
真っ向から裏切りに怒り、立ち向かえる強さを信じている。どれだけ暗く霞んでも、この空の下のどこかであの心が輝いている。
そう想えば、根拠は無くとも元気が出た。自責の念を追い出すための涙にも、沈む必要など感じないくらいに。
(うん、まず目の前のことを頑張ろう。ただ不安でいたら、また泣き虫って言われちゃうし)
劣等感を常に感じていた頃より気楽になった分、紫苑の関心は新しい環境の様々に向きつつあった。
二年間同室であっても別に仲が良くはなかったし、相手も同期の支えになろうなんてきっと思っていない。だからやはり勝手に支えられて、勝手に元気を貰おうと思う。
……何かにつけて泣いてしまうことを容赦なく呆れられるのは悔しかったし、自分でも涙でしか強い感情が出力出来ない自身を何度卑しんだか分からない。
(いつか、次に会った時にでも。少しぐらい見直して貰えれば、ぼくはそれで良い)
だけどあの歩みながら振り返っては睨み付けるペリドットは、ライダーになれる筈も無いと思う自分を最後まで無視も見捨てもしなかった。
その視界から外れたくない一心で、足を動かし続けることだけは出来たのだから。再び彼に会えた時に、何か一つくらい手伝える自分では在っておきたい。
そう考えた紫苑は自分の弱さ、自分の欠点と思う面を恥じる思いを持ったまま、新たな環境での最初の一日をそれでも前向きに終えている。
「──分かりました。簡単でいいので、地図も借りられますか?」
翌日から早速介護のアシスタントに精を出す傍ら、シニアホームの職員に頼み事をされた。広報誌に載せる写真を撮るのに、近辺の山へ行って来て欲しいと。
花見シーズンは過ぎてしまったけれど、まだ遅咲きの桜を見られる穴場があるそうで。行動範囲を広げたい紫苑としても、喜ばしい話を貰えている。
行ってみれば地形は二年を過ごした『一ノ顔市』の山に近く、細部が違っても遭難しない程度には歩き回ることが出来た。
「わぁ…………!」
一人きりの山歩きだけれど、辿り着いた先の景色に思わず声を上げる。街ではすっかり散ってしまった花が、確かにそこではまだ残っていた。
借りたデジカメを構えて、二年間の内に機会が無かった風景撮影を試みる。花の知識なら幾らかある紫苑が撮ったそれは、素人仕事にしては中々に見えた。
聞いた話によれば、霞桜という種らしい。とある同期ならもっと詳しいだろうけど、一般的な桜より樹高のある樹は確かに霞のような花を咲かせている。
ごく最近まで季節感の薄い日々を過ごしていたので、そこでは見られなかった美しさに尚更感動した。一人で見ることを、勿体なく感じるくらいに。
同じく桜と無縁な二年を過ごした同期らが居たら、喜ぶだろう。差し置いて騒ぐだろう。植物なら反応はするだろう。一人一人の反応と心模様を、一人で想像する。
──最後に思い浮かべたのは、相変わらず無愛想でいそうな顔と。自身のそれを疎みながらも、喜びを感じることが出来る心根だった。
(アカデミーでは考えたこともなかったけど、みんなでお花見とか出来たら……きっと、楽しいだろうな)
下山してシニアホームに戻るまで、知った顔には誰一人として遭遇していない。街の広さが改竄された記憶に近しければ、それも仕方ないだろう。
あの穴場には最近誰かが来た痕跡も無かったから、少なくとも同期の中では自分しかあの霞桜を見ていない。アカデミーでは一度も経験しなかった、一番乗りだ。
そう思うと、足取りが幾らかは軽くなる。撮った写真もお礼と共に『心から』褒められて、二年間の内にやはり機会の無かった誇らしさも多少感じられた。
この環境でなら、変われるかも知れない。変わらなければならない。疎ましいばかりの弱さを棄てて、恥じることなく生きられるようになりたい。
自己否定に基づいていても、希望を抱いたことには違いない。絶望する機会に満ちた二年の終わりを、紫苑はその時こそ初めて実感している。
「そう、君は怒る必要なんてないと思うんだ。ただ自分が感じたことに正直でいれば、それで……」
そんな落ち零れ意識の決定的な転機が突如、変わろうと言う希望だけを持って過ごす日々へと訪れる。
自分の中に、怒りの感情が無い。誰かのためにすら怒ることが出来ない。それは致命的な弱さだと、そんな人間は誰も守れないと、彼は二年間嘆き続けた。
……けれど、それを弱さと断じなくてもいいと。怒ることが出来ずとも、争うことが苦手でも、戦う理由を持つことは出来る。初めてそう言われ、識った瞬間が。
「……怒りじゃなくても……戦う理由になるかな……?」
涙と共に正義を為す。それを理由に目の前の悪意へ抗う『自分らしさ』こそ、本当に自分を変える意志だった。
己の強さを見出して立ち上がり、奪われんとする命を守った激情無き戦士。字は、仮面ライダー紫苑。
否定し続ける自身の根幹を認めたその時から、戦う覚悟と
「──今日から、世話になる。居候の身だ、やらせたいことは何でも言え」
初めて変身出来た日に、同期で寮の部屋も近かった二人と再会している。これを期にして、ようやく正当な住居へ移ることにもなった。
築四十年と古いけれど、リノベーション済みで綺麗なアパート。身寄り一つ分からない自分が生きて戦うためにと、出逢ったエージェントの手引きによるものだ。
怪人から異界へ取り込まれた人を救うに当たっても、三人で協力したからこそ成し遂げている。紫苑は初めて自分から戦って、勝つことが出来たのだ。
それからまた数日経過すると、もう一人の同期との再会が叶った。紫苑の方から申し出たことで、本日から『かつてのように』二人暮らしを始めることになる。
「ぼくもここに来てそう経ってないし、何も持ってなかったから片付ける物も特に……じゃあ、まずは寛いで。蒲生くんも、疲れてるでしょ?」
同期で寮の部屋が同じで、実るなどとは思っていない片想いの相手。蒲生慈玄は案の定無愛想な顔をしたまま、紫苑の住居へと足を踏み入れた。
自分と違い再会した時には既に変身を体得していた彼が、角卓袱台の前に座りまだ殆ど何も無い居間をぐるりと見回している。
「寛ぐ暇なんかあるか。鍛錬と虹顔市全域のパトロール、それに当面の短期バイト……やらなきゃならねえことは幾らでもある。まず一刻も早く、俺の家賃を稼ぎたい」
やっぱり彼は、現実に放り出されて尚も自分の道を歩もうとしていた。変わらない様子に安心して、けれど紫苑は内心あることに気付く。
感じた心が、張り詰めていた。四六時中ピリピリしている人物とは言え、こうも慈玄が神経を尖らせているのは……紫苑の見た中では、一度きりの機会以来だ。
「……人の世話にならないと生きられないままじゃ、不甲斐なくてならん。ましてや同じライダーとは言え、お前はまだ自分の生活にも苦労してるだろう」
怒っているのでも、呆れているのでもない。寧ろその物言いからは逆の感情、負い目を強く伝えられる。
放り出されて路頭に迷っていた際、交番勤務の警官が泊めてくれたのだとか。カオスワールドを開いた恩人を助けた折に、今はどうやって生きているかを訊かれた。
自分はアパートに移り住んだばかりで、同期二人も住居を得ている。そう答えれば難しい顔をされたので、一人暮らしの自分が同居を提案した。
人の手を借りること、転じて人の負担になることを嫌う。事情を同じくする同士なだけマシでも、居候の立場でいる時間自体に慈玄は苦痛を覚えているようだった。
「苦労もしたけど、最近はそんなに辛くないよ。──うん、ちょっと待ってて。座布団をもう一枚とか、必要な物でも考えてればすぐだから」
声を掛けて、台所へ向かう。入居当日よりは物を増やせたその空間で、自分の出来ることをしようと思った。
短い時間を経て、湯気の立つマグカップを角卓袱台へと置く。その向かいに座ろうとした紫苑を、眉間にいつも通り皺の寄った顔が怪訝そうに見た。
「座るんなら深水が座布団を使うべきだ。家主なんだぞ、お前は」
「ちょっとぐらい気にしないよ、畳だし。大丈夫だから、まず一服して」
「…………頂きます」
いつも荒っぽい物言いをする慈玄だが、礼儀には寧ろ厳しい。同期なら年上でも対等と見つつ、目上の人相手や食事の挨拶は一貫して敬語だ。
マグカップはまだ一つだけれど、立つ香りは結局そのまま座っている紫苑にも届いている。日本茶とも紅茶とも違う、スパイシーで爽やかなものだ。
ずず、とゆっくり飲む姿を見守った。温かい飲み物はそれだけで、緊張を僅かにでも和らげてくれる。
「ハーブティーか?具体的な種類は知らないが……甘みもあるのは、蜂蜜か」
「ディルティーだよ。仮面カフェで飲んだ時、レオンさんが分けてくれたんだ。種を使っているから、ハーブと言うよりスパイスティーかな」
料理好きで腕前も確かな紫苑だが、アカデミーでの環境においてはそうした知識を活用する局面も少なかった。
潰したディルシードをフィルターに入れてお湯を注ぐだけなので、今の環境ならすぐ出せる。慣れていないだろう風味を緩和するため、蜂蜜も溶かしていた。
「スパイス……確かにそういう匂いだから、山椒辺りの辛い物を連想していた。軽い甘みとすっきりした後味で、思いの外飲みやすい」
「植物の葉っぱに茎や花がハーブでそれ以外はスパイスだから、辛みがなくて色や香りだけを出す物も沢山あるんだ。胡麻なんかも古いスパイスの一種だし」
「そうなのか?薬草に関する本は多少読んだが、俺は料理関係のことがさっぱりだからな……記憶の真偽を問わず、ディルとやらが何なのかも分からん」
「レオンさんが教えてくれた話だと、ディルシードは
記憶を改竄されたまま戦いに身を投じる者達を、中央地区のカフェに隠れて助けてくれる施設がある。
そこの全般を取り仕切る自称・スーパー執事と紫苑は、既にメニュー案の提供など料理の話に花を咲かせる仲となっていた。
紫苑が慈玄と二人きりになる時は訓練の場と寮の部屋ぐらいで、お茶の香りと共に雑談をしたことなど二年と少しの間において今が初めてだ。
残りを無言で飲む顔を見ると、眉間の皺が薄らいでいることに気付く。一人読書するのを遠くから見る時しか目にしなかった表情は、少し前よりも随分と近くに在った。
「ご馳走様……何だ、その締まりのない顔は。茶を飲んでるだけの奴を見ても、面白い要素なんかねえだろ」
「ううん、飲んで貰えて良かったなって。お茶請けとか何も無くてごめんね、魚介類と相性の良い香りだからお茶も魚料理と合わせられるんだけど」
「急な話でそこまでする必要があるか。…………相変わらず、やたら気を遣う奴だな。それで戦っていられるのか、泣き虫のお前が」
「大丈夫、そうすることはもう決めてる。魅上くんや伊織くんと一緒にやれば、ぼくにも誰かを守れるって分かったから。泣き虫にだって、戦う理由は持てるんだよ」
瞬間、慈玄がぱちりと鋭い目を丸くする。無愛想な表情ばかりを知っていた紫苑もまた、それへ視線を釘付けにされてしまった。
かつて怒りや呆れを主体に言われたことを、心配する一心で言われたのだと感じている。そうだからかつて悔しかった物言いに、安心して欲しい一心で返した。
卒業試験の日からまだ少ししか経っていない今、そんな言葉が紫苑の口から出たことを慈玄は相当意外に思っている。
それこそ、戦闘の疲れも現状への負い目もこの時ばかりは吹き飛ぶくらいに。ただ『そう言い切れる人間だったのか』と、心から驚かされていた。
「いいのか、同じ寝室で。プライバシーの観点から言えば、俺は居間にでも寝かせて後で仕切りなり作るとか」
「うん、いいよ。元々ここのアパート、一人で住むには広かったから」
マグカップと夕食の洗い物、それと風呂掃除を慈玄は間髪入れずに引き受けている。人の世話になりたがらない彼は、寛いでと言われてもやはり頑固だった。
シニアホーム近辺でたまたま空きのあった所らしいここは、一通り見た感じ本来なら少人数の家族向け物件なんだろう。
二階の角部屋でベランダの他にも窓があり、台所や収納スペースは広めに作られている。同期の二人も案外近くに住んでいたから、居間へ四人集まっても良さそうだ。
空間の余裕に寂しさを覚えていた紫苑としては、元々同室だった相手には寧ろ生活空間を同じくして欲しかった。そういう訳で、寝室も共有することにしている。
「────深水。恩は必ず返す」
真っ直ぐに、生真面目に、そう言った彼が小さく「おやすみ」と付け加える。向こうからそう言われたことも、考えてみると二年と少しの内で初めてだっただろうか。
これからはもう会うことも無いだろうと思っていた、こうなればたまには会うだろうかと思っていた深水紫苑の密かな想い人。
この時自分がそんな存在だなんて全く気付いていなかった蒲生慈玄との共同生活は、このような経緯で改めて幕を開けていた。
「蒲生くん、もう起きてたの?」
翌日の早朝。布団が足りないならと毛布にくるまって寝てしまった慈玄は、紫苑の気付いた時には寝室を出てしまっている。
お巡りさんに借りた着替えを早く返さなければと言っていた、アカデミーの頃なら起きてすぐ制服を着ていた後ろ姿が角部屋の窓の前に立っていた。
晩春の曙。この日はよく晴れていて、その背中越しに柔らかな光が差している。話し掛ければ、弾かれたように振り向いてきた。
「いつもの時間に起きたら居なくて、びっくりしたけど……もしかして、眠れなかった?」
「……いや、しっかり眠れた。寧ろここ最近では、寝起きが一番良かったくらいだ。ディルティーだったか、あれの効能だろうな。感謝する」
曙光に照らされたその顔は、いつになく険が取れていて──それもまた見慣れなかった紫苑は、内心どきりとしている。
感じた心は確かに、昨日より落ち着いているようだった。本人が表に出さずとも、やはり緊張による疲労は嵩んでいたんだろう。
「早く目覚めたついでに、周辺を確認していただけだ。……ここは、見晴らしが良いな。緑の多さからして、もう少し早ければお前も桜を見れただろうが」
アカデミーには季節行事の一つもなく、屋内とグラウンドの行き来で大半を過ごしている。外では桜が咲く頃かなと、ふと零したのは丁度去年だったか。
紫苑自身も忘れていたくらい、他愛のない一言。話し好きな同期一人しか乗ってこなかったそれを、もう一人の同期と同じく無関心そうだった慈玄は覚えていたらしい。
予期せぬ言葉に驚いた紫苑は、ふとあることを思い出した。エージェントから譲り受けたライダーフォン、その画面を慈玄に見せる。
「桜は、見たよ。ちょっと前にシニアホームのお手伝いで、この写真を撮りに行ってて」
「これは……山桜か?」
「うん、霞桜って遅咲きの種類で……記念にしたかったから、データを送って貰ったんだ。よく撮れてるって、褒められちゃった」
一番乗りの一人で見た花の美しさ。貴重で大切なありのままの記憶を、彼と共有出来るなんて思ってもみなかった。
二年と少しの間で今こそが、一番嬉しい時かも知れない。そう感じて思わず笑ってしまったから、また締まりのない顔と言われるかなと予想して。
「ああ、俺も良い写真だと思う。…………綺麗、だな」
──それとは全く異なる反応を目の当たりにして、かっと頬が熱くなる。
最大威力の
霞桜の写真をまじまじと見て、素直にそれを賞賛する。そうしてふっと目元を綻ばせて……小さく口元も緩める想い人が、確かに微笑んでいたのだから。
「おい、どうした深水。本当にどうした、風邪でも引いたのか!?」
「え、ううん、何でもない……よ?元気だから、大丈夫……その、思ってたより日差しが暖かくて……お互い早起きしたし、もう朝ご飯にしよっか」
「まあ、近年はこの時期でも日によって暑いからな……体調には気を付けろよ、いつどこでカオスワールドが開かれてもおかしくないんだぞ」
すぐに焦った表情に変わった相手の心へ寄り添っても、原因を察されたとは全く感じられない。ほっとした紫苑が、ばたばたと台所へ向かう。
眉間に皺を寄せて睨み付け、遠慮なく怒りも呆れもしながら真摯に案じてくる姿に惹かれている。なのにそれとは全く違う表情が、ここまで輝かしく見えるなんて。
(これまでの二年間とあまり変わらない生活になる、って思ってたけど……顔に出ないようにするの、前よりかなり大変かも……)
実るなどとは思っていないし、何も返ってこなくて構わない。勝手に抱いた心なのだから、川に投げた小石が広げる波のように消える恋でいい。
虚像で過ごした日々の内に確立させた諦観を、虚像を抜け出すなり訪れた幾つもの転機がそれこそ粉々に砕いてしまった。
さながらそれは、枯れた樹に花を咲かせる灰のように。自分を認めて前を向いた紫苑の視界は、その日から明るく彩られることになる。
第2話
誰かに人間嫌いな奴だと言われるなら、そうなのだろう。
最早希少である確かな記憶においてそうした覚えは無いが、確かではなくなってしまった記憶のどこかではどうせ言われていた。
悪徳を許せない。不義を認められない。不実など言語道断。蒲生慈玄はそれが自分の性分であり、拒絶する全てが人間の本質と言うなら嫌いに違いないと考える。
……例え誰もが現実的ではないと言おうとも自分だけは、人間が善に努められる生き物だと。その行いを守る存在がこの世に必要なのだと、信じる一念を抱きながら。
『畜生、悔しいが俺には……出来ねえのか……?』
無論、それを担う強さなど一握りの人間にしか持てるものではない。
貫くことへの障害全てを打ち倒す志有る者こそが、弱き人々の前で道を歩むべきだと思っている。
継続は力なり。志を持つのだから、何としてもそれを為す実力を身に付けなければならない。多くの人を助ける身には、努力も覚悟も際限無く詰め込まれるものだ。
故に彼は、同じ役割を目指す者達との関係全般を拒んでいた。人のための行いを研鑽する者が一人では何も出来ないなど、馬鹿げているし守る人に失礼だろうと。
喜びを分かち合って何になる。人の痛みや戦う志を解さない態度を見るのは不快だし、そう思うことを隠した所で誰の益にもならないだろうとも。
嫌う相手さえ裏切るまいとする、刺々しい生真面目さ。己の二年をそう鎧い続けた慈玄には、独りで高みを求め続け──独りで壁にぶつかり、砕けかけたことがあった。
『諦めるなんて、蒲生くんらしくないよ』
伸びるも折れるも自己責任。その意識を誰に繕うこともなく表に出していたから、そんな言葉を背後から掛けられるなど夢にも思わなかった。
何度嫌悪をぶつけても笑って近寄ろうとする、或いは全く関心を持たない同期でもなく。同室を預かりながら全く親しくなかった同期の言葉だったから、尚更に。
強いて言うなら、同室だからと連携戦闘訓練を度々させられている。ライダーに連携など不要と思う自分と、ライダーになること自体到底向かない相手で。
成績は当然散々だったし、一人で二人分の成果を出せない自分が不甲斐なかった。一度模擬戦で当たった時に、あの姿はこの使命を担える人間ではないと確信したから。
何をされても怒ること一つ出来ないし、対峙する相手にさえ情けで動きを鈍らせる。そんな人間がここに居ることに怒りも呆れもしたし、口でもはっきり言っている。
『分かってる!でも、何百回やっても出来ねえんだ』
『でも、その次は出来るかも知れない』
だからあの姿には、自分が励まされる謂れなど無い筈だ。
励ましも馴れ合いも要らないと公言していたのだから、挫折する時は放っておかれることを前提にしていた。
他人を労るあまりに傷付くばかりの同期が、何度となく部屋で泣いていたのを知っている。上辺の言葉なら無い方がマシだと、慰めの声は一切掛けなかった。
なのにどうして、彼はあの場に現れたのか。見捨てられる理由は明確だが、見守られる理由など自分に在ったのか。
『蒲生くんなら出来るって、ぼくは信じてるよ』
その答えは、今でも分からない。ただ事実として、あの時の慈玄は確かにその一言で自壊を免れている。
自他共に認める落ち零れで、しょっちゅう自信の無さを口にしていた。しかし虚像の中で過ごした二年において、あの時だけは深水紫苑の言葉に力が籠もっていた。
不実や不義を過敏に嫌うからこそ、本気で真剣にそう言われたのだと理解している。それ以上は何も言わずに、ただ挑戦の続きを後ろから見ていた。
その気配を、存在感を覚えている。人前で膝を折る様など見せられるかと、更に失敗を重ねても続けた果てにとうとう成功させた。
飽きもせずにそこに居続けた相手へ思わず振り返れば、本人のことより余程嬉しそうに微笑まれて。何を言えばいいかも分からず、むず痒かったことも覚えている。
「深水。お互い依頼が終わった後で、仮面カフェに集合出来るか」
あのような行動が出来る人間は、自分の不甲斐なさに嘆く涙も真剣だからこそ流しているのだろう。慈玄の紫苑への印象は、その時にそう変化している。
卒業試験を通過出来そうにないし、苦しむばかりなら自主退学した方が良いと思っていた。道半ばで逃げる奴は嫌いだが、あれだけ向いていないなら仕方ないと。
それでも、あの真剣ささえあれば違う道でならきっとやっていける。アカデミーを出ればもう会うこともなく、それぞれの人生を歩んで行ける筈だ。
そんな予想に反して、慈玄を取り巻く環境は随分と様変わりした。アカデミーで同室の同期だった紫苑と、何の因果か虹顔市で生きて戦う今も生活を共にしている。
居候の立場を一刻も早く脱しようと可能な限りの最短日数で日銭を稼ぎ、晴れて対等な同居人となった。一通りの生活用品も、今は二人分揃っている。
「えっと、スケジュールは……うん、行けるよ。トレーニングルームを使うの?」
「ああ。二組に分かれた戦闘を想定して、お前と二人でやる時の動き方を詰めておきたい」
何より変わったのは、アカデミーの頃とは逆に連携を意識しなければならなくなったことだ。
ジャスティスライド──慈玄と紫苑、加えて近くに住んでいる二人の同期が『平和の契約』に依り結成した
未熟な自身を鍛え今度こそ一人不足無く戦おうとしていた慈玄は今、未熟な者同士で団結して不足を補い合う方針へと転換しつつある。
『目を覚ませよ!ここはあんたが住んでる世界じゃない!』
現実に放り出され、これまで志し歩んだ道は虚構だったと突き付けられる。それでも彼の足は止まることなく、虚構の大元が悪なら戦うまでと奮起した。
身寄りが分からなくなった自分を助けてくれた、尊敬すべき善へ応えるために。善に努める人間を脅かす全てを、培った実力で打ち砕くために。
散り散りになった同期を探そうなど考えもせず、ただ恩人の守るありふれた営みに潜む敵を探す。恩人たる平凡な警官が異界に取り込まれたのは、その時のことだ。
人の不義理を嫌い、己の喜びを疎み、悪を
恩人の抱えていた不満を知り、自分もまた行く道を誤っていたと気付く。暗闇の中で独り足を動かし続けたから、己の根底にも目を向けられなくなってしまっていた。
『……周りが見えなくなって、自分自身すらも見失ったら…………誰かを助けることなんて出来ねえんだ……』
怒りに猛り正義を志す。その理由を一度見つめ直すことこそ、本当に正しく魂を磨き上げる方法だった。
己を省みて一度体得した変身の意味もまた再認し、一人では届かない恩義を守った意地堅き戦士。字は、仮面ライダー慈玄。
強敵相手の助けと紫苑の住居に迎えられる以上の手を借りるのは、それでも過剰だと暫く断っていて……ライダーが真価を発揮する条件を知り、やっと受け入れている。
その後クラスの結成と協力無しでは確かに勝てなかった戦いを経て、生真面目で真摯な慈玄は訓練で散々だった連携を克服する気になっていた。
「そうだね、どうしても四人集まれない時はあるだろうから……じゃあ今日の晩ご飯は向こうで食べようか、買い物する時間も充てられるし」
「お前は野外ステージの警護だったか。俺は魅上と行くが、確かにこっちの方は早く終わるだろうしな……じゃあ急がずに来い、空き時間でパトロールを済ませておく」
ジャスティスライドとしてやるべき様々と生計の確保を両立するため、エージェントに力添えを借りた四人は何でも屋を開業している。
あまり後ろ盾に頼りたくない慈玄の考えは、意外にも言い出しっぺかつアカデミーで四六時中反目していた同期と一致していた。
正確には慈玄が一方的に嫌って何かと噛み付いていたのだが、ここまで変化した環境においては相手の印象も少し変わってきている。
そういう訳で地道な広報活動から始め、かなりの雑事まで引き受けていた。これまた慈玄が一方的に嫌っていた志の無い同期とも、同じ仕事をする機会が出来ている。
「…………ふふ」
「何だ、また突然笑い出して」
「ごめんね、蒲生くん慣れたなぁって思ったからつい。急がなくていいとか、今初めて言われたかも」
「まあ、それは……思い返せば、そんな気もするが……これだけ何でもやったら慣れてはくるだろ、俺はもう少しライダーがやるべきことに絞りたいんだぞ!」
予期せぬ風の吹き回しだらけの日々は、二年よりもずっと浅い筈なのに随分と変化に満ちていた。
二度と会わないなら清々すると思っていた同期達以上に、生計を共にする紫苑への印象が大きく変わったのもそうだ。何しろ、同居初日から既に驚かされている。
戦う強さに適さない泣き虫だが、そうでないことへ真剣になれる人間には違いない。彼もいずれどこかで、他に向いている道を見つけられると思っていた。
そこから二年間の前提を覆されて、より厳しい現実の戦いに身を投じる。その決意を静かに示した紫苑からは、あの時以来の力を感じられた。
自分の誤りを指摘するのも、同居を提案するのも彼が自発的にしてきたことだ。そんな姿勢を見せられる人間だったのかと、慈玄は驚くと共に相当見直している。
「トレーニングの後で食べるんだし、ボリュームあるお肉系を頼みたいよね……今月のメニューなら、
「シュ…………?かつ丼でいいぞ、俺は」
日常においても、二年間見る機会の無かった人柄を何度となく目の当たりにした。争うことや競うことには消極的だが、そうではないことには寧ろ積極的らしい。
自他共に認める保守的な質の慈玄と違って、自由時間があれば経験のないことは何でもやりたがる。台所を掃除する度に、違いの分からないスパイス袋が増えていた。
知見を広げるのが余程楽しいのか、こうして急に笑みを零すことも多い。鬱屈とした表情ばかり二年間見ていた慈玄は、まだ紫苑のそうした動向に慣れていない。
激動の晩春が過ぎ、季節は初夏に移っている。慈玄からすればその程度の間に、泣き虫の同期が劇的に明るくなって──その様子を見る度に、調子を狂わされていた。
「あれ、蒲生くんもう来てたの?丁度良く合流するつもりだったけど、待たせちゃったかな……」
「いや、お前の予測は外れてねえ。外れたのは俺の予測だ、大分早く周り終わって…………伊織の奴が。頼んでもないのに、ばったり会っただけで手伝うと言い出して」
「そうなんだ、良かったね。魅上くんを迎えに行ってたのかな……そっちの依頼、結局何だったの?」
「看板作りだった。あいつに頼まれたから、途中から書道教室紛いのことになったが……良い出来に仕上がったし、依頼人のじいさんも喜んでたな」
そっか、とまた微笑まれる。何がそんなに嬉しいのかとむず痒くなり、鍛錬の集中が切れると頭をぶんぶん振った。
目まぐるしい変化が苦手な慈玄は、今は同じクラスの仲間である三人の知らなかった面を知る度に内心戸惑っている。自分も最近初めて、花粉に弱い体質だと知った。
軽薄で不誠実だと嫌っていた人間には、状況を俯瞰し補うべき点を見出す思慮が有って──軽口は相変わらず叩かれるが。
蒙昧で不義理だと嫌っていた人間には、人助けに必要な理解を向上させる意欲が有って──空気は相変わらず読まないが。
あんな奴らに勝てないのが許せない、向いていない奴の分まで出来ないのが不甲斐ない。そう自分を叱咤するので手一杯だったから、見えない面を思う余裕など無くて。
梅雨入りが近いこの日行った『連携戦闘訓練のやり直し』においても、また近しい存在の知らなかった面を発見している。
「……深水。さっきの投げと返し技だが、あれは合気道か?アカデミーの頃は使ってなかっただろ」
「うん、最近習い始めたから。今日の依頼でも、出演するアイドルを狙った不審者はこれで止められたんだ。上達したなら、実戦にもそろそろ応用出来るかなって」
「今初めて聞いたぞそんな話……警察学校でも女性警察官用の選択項目になっていると言うが、お前の場合は体力消耗の軽さに目を付けたのか?」
「当たり。相手が強いだけ効果的に使えるし、動きを止めるのがメインの護身術って聞いて……何より、合気道なら人と競うのが趣旨じゃない。ぼくには向いてるよ」
慈玄の知るアカデミーにおける紫苑は、とにかく戦闘訓練成績が悪かった。主に座学の成績が平均以上なので、自分と同じAクラスに振り分けられていたが。
一人で戦うことなど到底無理だろうと思っていたし、実際仮面ライダーの力を得た今も単独戦闘は極めて不得手だが……単独でさえなければ、話はかなり変わっていた。
「ジャスティスライドフォーメーションだと、ぼくが意識するべきなのは温存だから。そこを補強して、基礎体力は……まず、伊織くんと一緒にジョギングしてみる」
全面的に劣っているのではなく、一面に著しく偏っている。
ライダーステーションで各人の能力を調べた折、紫苑からそのような本人も知らない真相が判明した。
極端なパワー特化型──全力の一撃は人間離れした身体能力有する仲間にも匹敵するが、加減出来ず低い体力で常に最大限を振るってしまうので継戦はからきし。
大変に
かつての環境では気付きようの無かった自分の長所を識ることで、紫苑の視界は初めて変身した時より更に開けた。鍛えるべき点が明瞭なら、効率も自然と上がる。
「そうか。……お前も、頑張っているな」
そのような姿を見た慈玄は、ただそのように感嘆の意を述べた。素直に、真摯に、その姿勢は見上げたものだと思って。
すると、常に穏やかな眼差しがぱっちりと丸く開いて瞬く。人を褒めることに慣れていない自覚があるので、何かおかしかったかと慌ててしまった。
「蒲生くんぐらい頑張ってる人に、頑張ってるって言われるの……嬉しいけど、照れるね」
「言われなくても、柄じゃねえことぐらい分かってる。それでも向上心の強い奴なら、誰でも全員尊敬して然るべきだろ。俺も人の見習える点は見習う」
取り繕うことは向いていないし好きでもないから、ただただ本心を表す。言っていて気恥ずかしいが、こればかりは誠意だろうと堪えて。
そうすると余計目の前の顔が目を白黒させながらふにゃりとして、変な空気に耐えきれずさっさと地上階の仮面カフェへ移動した。
いつも通りの丼を前にする傍らで、ナイフの刺さった肉料理が出てきてぎょっとする。朝話したのがこれだよと言う楽しげな顔に、こういう時は豪胆な奴だと思った。
「確かに、魅上くんのびっくりした顔って思い浮かばないかも」
本格的な梅雨入りを迎え、四人で営む何でも屋こと『仮面ライダー屋』に来る依頼も屋外で行う類は早く片付ける必要が出てくる。
困っている人の助けになるのだからこういう時期こそ外での仕事は大切だが、雨風に長時間晒されるのは病気の元だ。自己管理に厳しい慈玄は、特に注意していた。
そうなると依頼やトレーニングの帰りに、四人が仮面カフェへと集う機会も増える。この日もそうで、ふと終始無表情な仲間が会話の主題になった。
ここまで時が流れると慈玄の同期達への認識もより変化していたが、それでもその仲間──魅上才悟は相変わらず、そう言う紫苑に何を思う様子も見せてこない。
「何事にも動じず、平静でいるべきだ」
「うん、それもそうだけど。おれはもっといろんな表情も見たいな!」
そのまま無言でいる才悟の横で、本人より余程話を広げたそうな表情の仲間も一際大きく声を上げる。
誰を相手にしても似たようなことを話しているように思ったが、それでもその仲間──伊織陽真はいつもより、そんな才悟に何か思う所のある様子を見せていた。
特に同意はしない。これでこいつなりに考えも悩みもするとか、自分の知らない面を見れば相手の印象も変わる。それは実感したが、能動的に見ようとまでは思わない。
「なぜ?」
「その方がおれも嬉しいし楽しいから!」
やっと出てきた反応が平坦で淡々とした一言で終わっても、陽真は懲りずにそう話していた。慈玄はいつも通り仏頂面で、そう他人の表情に喜べるものかと思う。
自分もまた、感情を表に出すのは好まない質だ。才悟の場合好むとか好まないとかの域ですらなさそうだが、慈玄としてはそう意識していた。
人のための道を志す身は、喜びを求めるべきではない。誰かの喜びを守れればそれで良いのなら、自分のそれに気を回す暇など残してはいられない。
自分はそう捉える人間で、今でもそこは変わってない。紫苑の笑顔を見ると調子が狂うのも、急激に増えた喜びを処理しにくいからだろう──とまで考えて。
(……いや、俺のライダー道に不要なのは俺の喜びであって深水は別に関係ねえな。しょっちゅう泣かれるよりは、笑って貰う方がこっちの気も楽になるが……)
同じクラスのライダーで同じ生活を営む相手とは言え、他人には違いないのだからその動向で自分の平静を左右されるのはおかしい。
最近読んだ自己啓発本にもその辺りの項目が──と本格的に考え込んでいたら、その紫苑が「蒲生くん?」と顔を覗き込んでくる。それでまた、平静を乱された。
「ただいま。行く時には降ってたのに、帰る頃には止んじゃってた」
その後先に帰るよう言って買い物へ行った同居人が、いつもの買い物袋と傘の他に何か大きめで角のあるポリ袋を持って戻って来る。
角部屋なので梅雨時はひっきりなしに発生する結露を掃除していた慈玄は、それを見て「鉢植えか?」と怪訝な声を掛けた。
「うん、安売りされてたから。丁度良いなと思って」
何がどう丁度良いのかさっぱり分からない相手を余所に、また楽しげに微笑んでいる紫苑がベランダで袋の中身を手際よく移し替える。
まだ多くないとは言え依頼の報酬を得ているので、ここ205号室では少し前から家庭菜園を始めていた。そこに加わった鉢植えは、小さな青い花を咲かせている。
「ガーデニングをやってる家でよく見る花だな。名前までは知らねえが」
「アガパンサスって言うんだよ。丈夫だし、庭植えでも鉢植えでも育てられる花で……今日安売りされてて、花の色も青なんて。本当に、丁度良かった」
ぽつりと零された言葉によると、丁度良いのは花の種類と買った日付と色らしい。刑事ドラマ気分で意味を推理してみた慈玄だが、思い当たる節は浮かばなかった。
雨は一度止んだきり再び降る様子もなく、そのまま夜を迎える。洗い物を済ませたついでにベランダへと出て、蒸し暑い空気に包まれながら雲の様子を見た。
石橋を耐久試験レベルで叩くタイプの慈玄は、予報に加えて直接空模様から明日の天気を予測する。月も星もよく見えるから、明日は久々に朝から晴れそうだ。
「蒲生くん、汗かいてない?これを飲むとすっきりするよ」
結局迷宮入りした謎の丁度良い花に視線をやるなり、そう声を掛けられた。いつの間にか後ろに居た紫苑は、二人分のグラスが乗ったお盆を持っている。
氷とミントの葉を浮かべたグラスの中身からは、レモン汁の匂いと……この手の飲み物からする印象のないスパイシーな匂いがした。
「レモネード……だよな?味は確実にそうだが、こう……カレーの匂いもしてくる」
「クミンが入ってるからだね。カレーの匂いを決めるスパイスで、食欲増進とかに効果があって……インドで飲まれるレモネードは、こういう作り方をするみたい」
暑い国の知恵ということで、この頃の気温に合わせて用意したらしい。見聞きしたレシピは何でも食べてみたいし作ってみたいと、紫苑は度々突然知らない物を出す。
丼物やシンプルな和食が好みの慈玄も、旺盛な好奇心とプロ級の腕前に依る様々な味に「よく分からんが旨い」と毎回思っていた。
「────忘れてるだろうけど、蒲生くん。誕生日おめでとう」
プランターと鉢植えの並ぶ前で隣り合って、二人で冷たい物を飲む。
そんな折にこれまた突然出てきたその言葉に、出された側が「は?」と反射的に声を出した。
六月十九日。蒲生慈玄はここでやっと、今日が自分の誕生日だと気付く。記憶改竄とは関係なく単に関心が無いそのことを、激動の日々の中ですっかり忘れていた。
己の喜びは疎ましいし、いい歳をしてそれに浮かれるなど恥ずかしい。アカデミーでは同期に祝われなくもなかったが、嬉しくも何ともないと正直に言っている。
そういう訳で本人は全く以て意識していなかった慈玄の誕生日について、日中会った二人も言及していない。実の所、本気で忘れていたのは本人だけだったのだが。
「ぼくたち、今はジャスティスライドの仲間だから。それを踏まえた誕生日祝いも、やってみたいなって考えてたんだ」
「……なら、俺じゃなくていいだろ。祝い甲斐の無い奴よりは、有る奴を祝った方がお前も楽しいんじゃないのか?魅上は論外として、伊織はやっただけ喜ぶぞ」
「蒲生くんはそういう風に考えるから、このシカンジだけでこっそりお祝いしようとしてたんだけど……丁度良く誕生花も手に入って、嬉しいから結局言っちゃった」
自己啓発本から恋愛小説まで本なら何でも読む慈玄だが、自分の誕生日に無関心なのだから誕生花なんて当然調べたことはない。
だから今初めてそれを知り、一気に迷宮入りしていた謎が解けた。色は髪色と同じだからだろう。ついでに今飲んでいる物の正式名称も分かった。
何事も謎が解けるのは気持ちいい。……初めて見た悪戯っぽい笑みの前で起こるそわそわした気分も、そういうことなのだろうと慈玄は内心で理由付ける。
「ぼくが勝手に嬉しいだけで、蒲生くんが喜ばなくても別によかった。──でも、ね。ちょっと嬉しいって心を感じたから、意外で今浮かれてるんだ」
梅雨時には珍しく雲の少ない夜空から月明かりが、背後からは室内の明かりがベランダに差し込んでいた。
じっと見つめてくるアメジストがやけに煌めいて感じるのも、反射光の多さだろう……と再び理由付けたのもまた『ちょっと嬉しい』心理からなのか。
「まあ、……花は嫌いじゃないし、祝い方も大袈裟じゃねえからな。嬉しくも何ともないなんてことは……ないだろ。祝ったお前には恩もあるんだ、人として当然」
「ありがとう。蒲生くんは、人が好きだよね」
また反射的に「は?」と声が出る。慈玄にとってそれは、自分への評価として言われるなど誕生日祝い以上に想像出来ないようなことだった。
誰かに人間嫌いな奴だと言われるなら、そうなのだろうと受け入れられる。けれどこの性分をその逆に思われるなんて、有り得なさ過ぎてかなり動揺した。
「そ、そんな訳あるか逆だ逆!俺は誰でも悪い面がすぐ目に付くし、馴れ合いも嫌いで腹の立つことは全部口に出す奴だぞ……第一、お前にもそうしてただろうが!!」
「うん。でもそれは、誰でもどういう人かを真剣に考えて誰にも嘘を吐かないってことでしょ。良い面を見つけたら、必ずそれに応えようともしてくれるし」
「人として当然の礼儀は弁えてるってだけで、そう好意的に見られる程のもんじゃ──」
「人が好きじゃなければ、それを当然だなんて思わないよ。不器用だけど丁寧で、だからこないだ蒲生くんがお手伝いした農家のご夫婦にも喜んで貰えたんだと思う」
グラスの氷をからりと揺らして、深水紫苑はやはり笑顔でそのように続けてくる。
自分は彼に受けた恩をまだ到底返しきれていないのに、祝われたことを多少嬉しく思っただけでどうしてそうも喜ばれるのか。
そう考える慈玄は蒸し暑さと照れ臭さで顔がぼっと熱くなってしまい、氷の溶けた水を一気に飲んだ。まだレモンとスパイスの風味が、その冷たさには薄く残っている。
「人が好きで、人のために怒ってくれる。そういう蒲生くんのことを、ぼくはずっと尊敬してるから……今戦っている君を、こっそりでもお祝いしたかったんだ」
己の喜びが疎ましいのは、人の喜びのために回すべき気を取られていると思うから。喜びを感じられなければ、喜びを尊んでいなければ、その理由では疎めない。
決して表に出そうとしない内実に気付き、敬意を示す人間がそんな慈玄の隣に立っていた。そうされる謂れも無い筈なのに、人が好きな人だと評価されている。
そのような割に合わないことを出来るのは、紫苑のように他人をどこまでも慮る人間だけだろう。素直に、真摯に、その姿勢もまた見上げたものだと思った。
「……仕方ねえ。そうまで言うなら改めて、俺はライダーとして人としてより精進する。お前が買い被っただけ、それに恥じない男で在りたいからな」
ありがとう、と絞り出した一言を付け加える。それが慈玄に出来る言葉での返答の限界だったので、足早にベランダから出て居間へ戻った。
お前も汗をかくから中に入れと声を掛けたら、そうだねと返される。その時の紫苑はやはり笑っていて、同居を始めてから随分泣かなくなったなとふと思った。
さながらそれは、回すごとに景色を変える万華鏡のように。この角部屋で次から次へと、かつては知らなかった表情に気付かされている。
「蒲生慈玄。配線が違う。そこは1番、3番、2番の順に繋がなければ動かない」
「分かってる、クソ、手元が狂った……!少し待ってくれ魅上、平静を保ちさえすれば普通に出来る」
紫苑一人だけに祝われた誕生日の夜を経て以来、慈玄の平静は紫苑の笑顔を目にする時でなくとも突発的に乱れるようになった。
エージェントに記憶改竄の後遺症かと相談したが、アルカイックスマイルのまま「調べたけど他のクラスにそういう前例はないから違うと思うよ」と答えられている。
(そんな訳は……そんな訳はあるか……!ライダーたるものそんなことに現を抜かす訳ないだろうが、よりによってこの俺が……!)
その辺りで極めてありふれた、しかし自分には無縁としか思っていなかった可能性に思い当たった。
本なら何でも読む慈玄は恥ずかしくなる内容の話でも隅々まで読破するし、誕生日に誕生花を贈られたら改めてそれについて調べたりもする。
あまりに柄じゃなくて認めがたくとも、自分の様子がおかしければ自分でその原因を把握しなければならない。
変人の域に達しているぐらい生真面目な男は、その事実から逃げようとしなかった。他の可能性の方が有り得るだろと、図書館で本を読みながら必死で結論を急ぐ。
海外の古典小説由来の格言に『十人十色と言うからには心の数だけ恋の種類があってもよい』とあり、そこでもう先に思い当たった可能性を認めざるを得なくなった。
(結論が出てみれば、逆に落ち着いてきたな……よし、これも精神の鍛練だ。俺の志が、仮面ライダーとしての使命が、個人的な恋心なんぞに負けるものか!!)
全てに対して真摯なあまり、周りが見えなくなり得る純粋さ。
その危険性を指摘されて己が道を見直した慈玄だが、以降も放っておくとたまに一人で迷走する。
ライダーは恋愛禁止だとか個人的な感情を表に出すことは志の敗北だとか、別に誰もそんなことは言っていないし決まってもいない。
(……深水のことだから、俺のこの浮ついた心にも気付いて黙ってるんだろう。軽蔑して然るべき状況でも信頼関係を維持する辺り、あいつは凄い奴だな……)
そして聡い相手がこの事実をどう思っているかも、印象の好悪で言えば悪側に違いないと勝手に判断してしまっていた。
梅雨も明けて、本格的な夏になりゆくある日。己の喜びをまだ疎んでいる一本気な男の片想いを秘める挑戦が、両想いだとは露程も気付いていないまま始まっている。
第3話
自由も、余暇も、余裕も得た。
過去も未来も不明瞭で、がむしゃらに
涙の水圧から脱した春、大きな戦いと僅かな奪還を遂げた夏。この街という現実を過ごす中で、深水紫苑は多くの新しい物事に触れていた。
知らない、経験したことのない何かに挑戦するのは楽しい。その度に視界は小さな変化を起こし、見える世界を拡げてくれる。
二年間別に仲良くはなかった同室の同期、ただ自分だけが知られもせずに終わるような想いを寄せる相手についても。多くの小さな変化と、新たな一面に気付けた。
「日用品をそろそろ買い足さないとだな。今日は二人だし、纏めて買って帰るか」
「そう言えば今日……あっちのスーパーの特売日だ。もう色々売り切れちゃってるかなぁ」
「何?よし、急いで帰るぞ」
「そうだね。夕飯の買い出しもしなきゃ」
生真面目で細かい性格だとは、元々分かっている。
けれど束の間であっても平穏な日常を共有すれば、その気質が自分へどう働くかなんて前は想像もしていなかった。
掃除は隅々まで行いたい意向が合っているし、紫苑の趣味である料理に没頭出来るよう周囲の細々としたことを済ませてくれる。
気になる度に新しく買うスパイスも違いが分からないと言いつつ、食べ比べに応じて律儀なコメントをくれるから試すのが楽しかった。
住居を別にする二人や転機をもたらしてくれた人物を招く時も、雑談を添えた食事会に付き合ってくれる。鍋奉行だったんだなとも、この生活を始めてから知った。
他愛のない会話がすっかり当たり前となった頃、季節も秋に差し掛かっている。それからのある日、偶然出来た長めの空き時間が角部屋に流れていた。
「深水。……この本だが、図書館で読んで為になったから同じ物を買った。お前も読むか」
「うん、面白そう。蒲生くん、何でも読むけどこういうの特に好きだよね」
「好き、と言うか……先人の意見は多ければ多い程、己の指標を決める参考に……俺は新しい格言を書くから、今読んでもいい」
誰に対しても刺々しかった頃から見え隠れはしていたけれど、かなりの照れ屋でもある。そんな慈玄は好きな物も苦手な物も人に知られる度、毎回動揺していた。
自身の内面を察知されるのは、隙を晒すことだと考えるからだろう。そういう気質の人物なら紫苑の性分に拒否感を示すこともあるが、慈玄は違う。
人の心に寄り添い、感じた模様を気に掛けずにはいられない。今となっては真偽が定かでないけれど、アカデミーに入る前にその行いを気味悪がられた覚えもあった。
やり過ぎないように気を付けて、しかし放っておけないと思えば結局干渉しようとしてしまう。今の仲間達には、この虹顔市に出てから初めてそれを明かした。
切欠はやはり放っておけないあまりに慈玄の誤りを指摘したことで、素直にそれを受け止めた相手は以来紫苑への恩義と気遣いを強く意識している。
強くなれずに傷付く姿を怒りや呆れに紛れて心配していた心が、その姿らしい強さも在ると理解した上で慮るようになったのだ。
「──『意見の数は心の数』。半分受け売りだが、今回はそれで行く。お前も、あまり一つの心に入れ込み過ぎるなよ」
ぶっきらぼうに言いながら書道用具を出す背中を、そっと眺めていた。格言を自作して書にしたためる、そんな変わった趣味は二年前から少し目にしている。
四人が直面した大きな戦いの中で強い悪意に苦しめられ、己の記憶を巡る僅かな奪還の過程で他者と衝突した。現実を生きるこの夏の間、紫苑の身に起きたことだ。
相手しか持たない感覚を全ては理解出来なくとも、慈玄なりに傷付いていないか心配していたのだろう。何もかも見透かすまでは出来ないが、確かにそれを感じる。
……自分が彼に対して、人を好きな人だと評して以来。誰をも真摯に気に掛ける心根を、慈玄はかつてと比べて表に出せるようになってきていた。
『ったく、人騒がせな……魅上の奴、なまじ頑丈だから自己管理意識が足りてねえ。あの調子なら明日には、また何事も無かったように動いてるんだろうが』
『うん、良かったね。魅上くんも蒲生くんも、不安が解消されそうで』
『な、何でそこで俺に……仕方ねえだろ、あいつの罹る風邪なんてまずただの風邪かどうか疑わしかったんだ!』
紫苑一人が祝ったあの日の少し後、大雨に降られた仲間が軽い風邪を引いている。同居人から連絡を受けた慈玄は、朝から大分心配しているようだった。
大したことでもなかったけれど、アカデミーの頃より素直だと紫苑は密かに思っている。かつて才悟が突然姿を消した時は、見つかるなり殴り掛かったくらいなので。
当時その剣幕に何も感じていなかった同期へ対し、慈玄はいつも通り怒っていて……苦笑して宥める紫苑だけが、そこに微かな無事だったと喜ぶ心も感じていた。
己の喜びを不要と断じ、決して表に出そうとしない。そんな彼も、当たり前の感情を持っているのだと──自分と『同じ』ではないのだと、安心したのを覚えている。
「…………よし」
紫苑が受け取った本のページをめくる手は、あまり動いていない。集中して筆を動かす姿を、つい見守ってしまっていた。
人の不徳に過敏で怒りっぽい慈玄も、それを感じずにいられる時は静かだ。アカデミーの環境では一人読書している時しか現れなかった面を、今は何度となく見ている。
黙々と実直に働く、不器用ながら丁寧な人柄はお年寄りによく好かれていた。紫苑と関わり深いシニアホームへ連れて行く度、入居者に可愛がられて戸惑っている。
そうした依頼人から古い碁盤と碁石を貰った折に、戦況を読む力が養われるからとルールを教えてくれた。勝負事が苦手な紫苑も、時々の静かな対局は楽しんでいる。
囲碁の真剣勝負に勝つ時も、こうして満足の行く書が完成した時も……ふっと真剣な面持ちを綻ばせて、かつては見られなかった小さな笑みを浮かべていた。
意識して笑顔を作れないと言う彼が、パトロール中子供に泣かれたと困っていたのを覚えている。けれどあの早朝のように、自然にならちゃんと笑えるんだと分かった。
「何だ、そうまじまじと……」
「びっくりさせてごめんね、良い出来だと思って。蒲生くんの字、凄く綺麗だから……好きなんだ、ぼくも」
「ぐ…………まあ、確かに、我ながら良く書けたとは俺も思うが…………」
貴重な微笑みが、また照れた顔に変わる。この生活を始めてから、見ていて楽しい人だなと思うようになった。楽しいのは、字『以外』の多くも好ましいからだ。
一緒に暮らしていれば互いに、欠点も分かり合えない点も見える。だけどそれ以上に幾つもの点が新しく解って、もっと彼を好きになった。
実る想定など無かったにしては、あまりにも上等な片想いと化してしまって──夏の辺りからは、その事情さえも紫苑の心中で少しばかり変化している。
(今のは不自然な返事だったか、みたいなこと思ってるんだろうな……)
決して万能でもないが、近しくなる程必然的に感じやすい。ましてやこの心は前からずっと、嘘も裏切りも持つまいと常に努めていた。
そうだから流石に、自分の抱く感情と同質のモノを慈玄が持ち始めたとも察してしまっている。隠し事に向かず分かりやすい人だから、他の誰かにも気付かれるだろう。
二年未満で終わる筈だった恋が、まさかの両想いに発展してしまった。そうだなんて全く考えていない相手と、こうして共にする時間を重ねている。
(でも、こっちからそんなこと言うのはフェアじゃない。対等な関係だからこそこうなったのなら、ぼくも待つ努力をしないと)
幾ら分かっていても、相手が自分から伝えようと腹を決めなければ意味がない。
剛毅かつ受け身な気質の紫苑は、既にその信条を以て構える姿勢を取っていた。
……とは言え彼だって、概ね健全な男子なので。使命有る身で浮ついた感情を持つなどと考える想い人には、この時点で結構もどかしく思わされている。
「新しい書も出来たし、おやつの時間にしない?栗蒸し羊羹を作ってみたんだ」
「ああ、あの大量に仕込んでた甘露煮でか。そろそろ茶葉を買い足す頃合いだな、来月なら秋冬番茶も出そうだが……」
以前取り戻した僅かな記憶によれば、自分を愛してくれた家族が少なくとも一人は実在するようだ。今後どこかで会えるのか、そうでないのかまでは分からない。
最初は寛ごうともしなかった同居人と過ごす、もどかしくも楽しい一時。この思い出についていつか話せればいいなと、紫苑の胸には前向きな希望が生まれていた。
『時間あるか』『あれば、特訓に付き合って欲しい』
秋が深まりつつある中で、またジャスティスライドは大きな出来事に遭遇している。
その後の依頼が少ない日の正午手前、そんなメッセージを送られた紫苑はライダーステーションへと向かっていた。
「どうしたの蒲生くん、今日は一日中一人でトレーニングするって……」
「ああ、そのつもりだったが。動き方を一通り見直すに当たって、改めてお前と合わせてみるべきだと思う」
最近遭遇した大きな出来事は二つ。
その内のジャスティスライドともう一つのクラス全員を巻き込んだ一件で、慈玄は再び自分の戦いへ転機を作っている。
セオリーに忠実な教科書通りの動きが読まれやすい欠点を、対峙した同期によってはっきり気付かされた。それを克服する道筋が、仲間と戦ってきた経験にあるとも。
見て覚えた三人のスタイルを自身の動きへ取り入れ、臨機応変に組み合わせる。気付きから見出した戦法を定着させることが、彼の新たな目標となっていた。
「マッドガイ以外のクラスとだって、いつ全員でやり合うか分からねえ。少なくともギャンビッツイン……特に久城の奴には、次こそ遅れを取らないようにしたい」
もう一件とは、これまで知られていなかったライダーとの邂逅である。
突然カオストーンを奪いに襲撃されるという、全く穏やかでない初対面だった。
同時期に未知の幹部カオスライダーまで現れたが、エージェントの働きや洗脳解除のための戦いを経て彼らも最新のクラスを結成するに至っている。
かの二人の顔を仮面カフェで見かけるようになったのがごく最近のことで、その元敵幹部じゃない方を慈玄は「裏で悪事を行っている臭いがする」と警戒を続けていた。
虹顔市の仮面ライダーが戦う理由は様々だ。求む理念が『平和』であり人命救助を最優先とするジャスティスライドも、他のクラスと衝突する可能性は否定出来ない。
とは言え目的がぶつかり合わなければ普通に交友関係も持てるので、そう全力でピリピリしないといけない訳でもないのだが。
「蒲生くん、深水くん、お疲れ様。おめでとう、ちょっとだけどタイム更新だよ」
そうして一通りのバーチャルバトルを二人一組で進行し、協力するエージェントにそう伝えられる。
アカデミーの頃は散々だった連携戦闘も、見違える程に上達している手応えが彼らには有った。
「よし、……思った通り、二人組なら深水と戦うのが一番分かりやすいな。魅上とは通常の前衛同士、伊織とは戦況を見る同士とやり方が被る」
能力が一面に著しく偏っている紫苑とは逆に、慈玄は突出した面こそ無いが全面的に平均以上をマークしている。
元々一人で全ての状況を戦えるべきだと鍛錬していたので、クラスによる連携では平時の前衛のみならずどのポジションにも対応出来た。
仲間在っての強さを信じられるようになり、どこで穴が開いてもカバーするため全員を生真面目に参考とする。そうして培った経験が、新たな強さに繋がったのだ。
故に決定力という突出する面以外の全てでカバーを要する、仲間無しには機能しない紫苑とは『一周回って最もバランスが良い』相性を示していた。
どのような事態だろうと人を守り命を救うことが第一である以上、それと敵の撃破を両立させるジャスティスライドの戦闘は難易度が高くなりやすい。
それでいてライダーとしての経験もまだまだ少ないから、得手も不得手も伸ばせるだけ伸ばすべきだ。努力を至上とする慈玄は、それを今一度強く意識している。
「はぁ……はぁ、ありがとう。小物は蒲生くんが引き付けてくれるから、長く戦いやすくて……でもやっぱり、ぼくが一番すぐへばっちゃうね」
「いや、お前はお前で伸びているぞ。少しずつでも基礎体力が上がっていると分かるし、温存のための合気技をライズと併用して大物にも通じるようにしてきた」
「ガオナクスぐらいのサイズだと固められないから、何とか出来ないかなと思って……ライズで捕まえれば、そのまま投げにも移れるし」
パワーの出し方はどうしても極端になる紫苑だが、ジャスティスライドのライダーに共通する帯状のライズを器用に操ることにも長けていた。
最大限と最小限の二択しか取れない単独戦闘では活かしにくくとも、中間を埋める仲間が居るなら温存と必殺の使い分けへと昇華出来る。
とは言え、二人組すら作れない状況に直面する時も必ずある。七国大学のカオスワールドでそれを痛感して以来、紫苑は自分の取れる解決策を模索していた。
「……癪だが、久城駆──ケルカと戦ったことで、今後の懸念も見えやすくなった。スペックだけで向かって来る怪人より、場数を踏んだ人間の方が敵としては脅威だ」
「皆の戦いを見た僕も、少しは意見出来るかな。確かに久城さんは素の能力より経験と判断力を武器にしていたし、フラリオさんは落ちたパワーを応用力で補っていた」
「幹部カオスライダーの圧倒的な能力は、洗脳解除と一緒に削がれる……それでも身に付いた戦い方を連携の強化に使えるから、やっぱり物を言うのは経験なんだね」
「エージェントとして、そう思うよ。魅上くんは単独の能力ならライダー全員中トップクラスだけど、クラス単位では寧ろ司令塔としての伊織くんが重要に見えるし」
人並み外れて高い身体能力と苦も楽も介在させずひたすら増やす鍛錬量を有する才悟は、それこそ個のスペックだけで粗方の敵や頭数を捻じ伏せてしまう。
一見無敵だが、実戦で先達を凌駕している訳ではない。経験と連携の相乗効果は多少の能力差なら容易に覆し、差が大きくとも最終的な結果では上回り得る程に強力だ。
状況判断と指揮に秀でる仲間の働きこそが、経験に乏しいジャスティスライドの連携を支えている。
故にそう認めた慈玄も、陽真をリーダーに据えることへ賛同した。
「ありがとう、ノアさん。自分を鍛えるのも大事だけど、みんなで戦う経験をとにかく積むしかない……そう考えた方がぼくは、頑張ろうって思えるから」
「経験が要るのは僕も同じだよ。久城さんと協力関係を作って、フラリオさんを助けて……他のライダー達とも色々話して、やっとこの程度は考えられるようになった」
ジャスティスライドの四人からすれば、かの青年は戦う道に入ることを助けてくれた恩人だ。
プライベートな相談も快く乗ってくれて、各々と以前より親密になっている。しかし彼もまた、エージェントの役割を継いだばかりの身だ。
至って温厚そうで頼りない雰囲気の人物だが、紫苑はその心にライダーをサポートするごと高まる熱意を感じていた。年下には度々過保護にもなってくるが。
「僕は何より、君達の戦いに公正な報いが在って欲しい。人を守る君達は、人として幸せになるべきだ。……そういう訳で、蒲生くん。やっぱりお昼はこれにしない?」
突然振られた慈玄が分かりやすく動揺した。先に来ていた彼には実の所、エージェントに預けている物がある。
年下の前では意識的に演出するキラキラ感と共に、その預かり物こと何かで膨らんだ風呂敷を差し出されていた。やけに困っている心を感じて、紫苑は首を傾げる。
特訓に集中する慈玄には何かを秘密にしている気配が無かったので、彼と言えども今初めてこのことに気付いた。内実も分からない。
「いや……だが……あんな出来なら、俺一人で全部片付けた方が礼儀としても……!」
「経験が足りなくても、一緒なら幾らかは補えるよ。気遣っている人を大切に出来る君だからこそ、その気持ちを無駄にさせたくはないだけだ」
そんなことを言いながらじりじりと詰め寄る青年が、結局押し切ってくる。見覚えのある風呂敷なので、どうも慈玄の持参した何かを返しただけらしい。
口振りからして、昼前の集合だからお弁当を持って来たんだろうか。そう考えている紫苑に、お馴染みの眉間に皺を寄せた顔が「移動するぞ」と声を掛ける。
「…………やったことのないことは何でもやってみる、お前の姿勢を見習いはしたが。人に出すのなら、結果が伴わなきゃ意味ねえだろ」
仮面カフェのVIPルームで開かれた風呂敷には、案の定昼食が入っていた。一個一個ラップで包んだ胡麻塩にぎりと、保温ジャーに入れた味噌汁の構成になっている。
胡麻塩にぎりは綺麗に整えようとして収拾が付かなくなったような見栄えで、味噌汁も具の栄養バランスを完璧にしようとしてごった煮と化したらしい。
つまりどこからどう見ても、生真面目で丁寧だけど不器用な蒲生慈玄の手製だった。持ち運ぶからと保冷剤を隈無く入れたので、おにぎりの米もすっかり冷えている。
何事も人のために行うなら瑕疵が有っては失礼だと思う彼は、他人に何か食べさせるならクオリティが確実な紫苑の手作りか買った物を出すべきとしていた。
しかし新たな戦い方を自身に叩き込むなら日常生活レベルでの努めを、と生真面目に考えたことでこのような試みをしている。した結果、普通に失敗した。
作ったなら全て食べる義務があるし一人で食べきれば自己責任だと、ちゃんと持って来て正直に経緯を説明したエージェントに預けていたのである。
「信頼性が高いレシピサイトの計量と手順に倣って味見もしたから、食える味なのは確認している……食える味だが、旨い訳じゃ……確実にねえな……」
力が加わり過ぎた上に冷えたおにぎりはゴワゴワだし、味噌汁の野菜は皮を残さず取ろうとして小さくなった物と変に大振りに切れた物が混在していた。
無理するなと何回も言ってくる慈玄を余所にそれを頂く紫苑は、確かに調味料はちゃんと計ってる味だなと納得する。本当に食べられる範囲内での美味しくなさだ。
前向きな仲間なら「食べれるんだから良いじゃん!」とか言うだろうし、何でも食べる仲間は「有害でなければ問題ない」とか言うだろう。
全ての具が煮えたかを執拗にかき混ぜて確認したようで、木綿豆腐なのに箸で掴む前から崩れていた欠片を拾う慈玄は見るからに落ち込んでいる。
慣れない料理を上手く作れなかったことより、納得行かない出来の物を熟練者の口に入れたことが失態として重い。そう捉えている心を、紫苑は感じていた。
「……お前は分かっているだろうが、上辺の慰めなら無い方がマシだ。不味い物は不味いと正直に言っていいし、具体的な駄目出しも全部受け付ける」
「うん、蒲生くんの言う通り食べられるけど美味しくはない。──でも、頑張ったのは凄く伝わるよ。それが本当に嬉しいから、その分加点していいかな?」
良いも悪いも正直に言うし言われようとする心根が好きだから、心からの言葉を返す。
悪戦苦闘して、ちゃんと失敗して、それでも最後まで懸命な姿が目に浮かんだ。その懸命さを共有出来る時間そのものに、何にも代えがたい価値を感じている。
「胡麻には疲労回復効果があるとか、そういうの調べて考えてくれたんだよね。少ない品目でバランスを取るなら、お味噌汁は活用しやすいし」
「これだけ世話になっていれば、そのぐらい知っておこうと思うだろ。……お前の料理をこれだけ食べたからには、最低限教科書通りの味にしたかった」
「そういう真剣な心を感じたから、食べている間ずっと嬉しかったんだ。ぼくも食べる人のことを考えるのが楽しくて、料理を趣味にしてるんだし」
こんな思い出まで貰えるぐらいに、今を生きる日々は多くの変化を起こしてくれた。
その根幹にはずっと、自分の何より輝かしく思った心が在り続けている。それをあまりに嬉しく想うから、目一杯の笑顔で「ご馳走様」と感謝を伝えた。
「じゃあ具体的な駄目出しに移るけど、お米が潰れるからおにぎりは軽く纏めるだけでいいよ。汁物の具も多過ぎると水っぽい煮物みたくなるし、あと保冷剤こんなに」
それはそれとして、求められたので何をどう失敗しているかも回答する。全て受け付けた慈玄は深く頷き、神妙に「言うと決めたら冷静だな深水……」と呟いていた。
そんなことのあった日から一週間後、紫苑は三人の仲間及びエージェントに何か隠し事をされている気配を感じ始める。
嘘とそこに悪意が無いことを捉えられても内容までは分からないから、訊くに訊けない内に不安が募ってきて……その真相を知った途端、安堵と喜びで泣いてしまった。
ごくありふれた、サプライズの誕生日パーティー。料理は商業地区で買ったプロ製の物、プレゼントは実用的なキッチン用品と祝う相手のことを真剣に考えた計画。
「……やったことのないことをやれば裏目に出るな、俺は。何か作るのは時期尚早に違いなかったが、気取られないよう動く意識が過剰だった」
「その、ぼくも深刻に考え過ぎてた自覚あるから……楽しかったよ、本当に。嬉しくても泣いちゃうの、癖だから気にしないで」
「不安にさせたのは確かだろ。久し振りに見たからって、お前が泣いただけで動揺したのも失態だったな……喜んでくれたなら、それで良い。次は先に言う」
あの夜へ出来る限り大きな礼をしたい一心で、初めてそのような催しを主導した。生真面目な慈玄はその後で、計画の反省点を振り返っている。
夏にやった陽真の誕生日祝いは紫苑の発案と才悟の意見を軸にしたが、無愛想で口下手な自分だと楽しげな期待感を事前に出すのはかなり難しい。
そう考えたし意表を突くのに慣れるためにもと、サプライズへ行き着いたのだと言う。自然に次があると思っている口振りに、紫苑の頬はひっそりと熱くなっていた。
「深水、お前は今日伊織と一日がかりの依頼だったな。俺は市場へ大きい買い物に行くから、人手が足りなければ早めに連絡してくれ」
「そう大きい規模のイベントじゃないから、大丈夫だと思う。大きい買い物って、何か必要になったの?」
「主に年の瀬に使う物だが、花と野菜の種も買う。虹顔市の通年気候を調べた所、冬でも家庭菜園は続けられそうだからな。何を育てるか、今の希望はあるか?」
その誕生日パーティーから数日経った、雲一つない秋晴れの日。
朝から慈玄がそう訊いてきて、もうそんな時期なんだと感慨深くなる。
先に伝えることを律儀に重んじたらしく、手書きのリストまで渡された。冬の家庭菜園についてはこれと言って考えていなかったので、任せるよと答えている。
紫苑が陽真とスタッフとして参加したのは、若い親子連れ向けの地域交流イベントだ。子供と遊ぶのは陽真、大人の悩み相談は紫苑に向いている仕事なので捗った。
昼食会の手伝いも務め、依頼先に大変喜ばれる形で終わっている。報酬のみならず様々な収穫を得た紫苑が帰り着いたのは、晴れた空が赤くなる頃だった。
「ただいま」
市場に行っていた慈玄が、それから予定よりは遅く帰って来る。積み荷が崩れるのを発見したので、戻す手伝いをしていたらしい。
大きな買い物の中から夕食の材料を出す紫苑は、そこに小さな陶器鉢に植えられた植物があることに気付いた。リストに入っていなかった類の物だ。
「蒲生くん、これ。
一度露頭に迷った時にその辺の草を食べるかどうか葛藤した経験から、食に怖い物無しと評される紫苑は詳しい仲間や先輩に食べられる野草を一通り訊いている。
慈玄には「そう何回も露頭に迷う想定はしたくねえな……」と言われたが、それでこの小さな葉の種類も判別出来た。観賞用にも食用や薬用にもなる、秋の植物だ。
「ああ、瀬戸物を買った時隣の花屋に勧められた。若いのに陶器の趣味が良いだの来月には花も咲くだの言われて……邪魔になる大きさでもないし、買ってやるかと」
「うん、葉っぱと同じで小さい花だったかな。野草だから丈夫だし、名前も『つわもの』から来てるんだって。そう思うと格好良くもあるよね」
半日陰に置くといいとのことで、いそいそとベランダの日向から離れた辺りに置きに行く。
あの時のアガパンサスは開花時期が少し前に終わり、寂しく思っていたので丁度良い。買うと言っていた種も確認すると花はビオラ、野菜は小松菜や春菊だった。
これだけあれば冬も春も、また青い花の咲く初夏まで家庭菜園で常に何かを育てられる。そう思うと早速楽しみになるから、夕食を作る紫苑は頬を緩ませていた。
「実は、ぼくからもお土産があるんだ。イベントでやったワークショップに、ぼくと伊織くんも参加するよう頼まれたから……玄関にでも置いていいかな?」
親子一組で二つ作る紙粘土フィギュアを、一人で二つずつ作らせて貰っている。
創造性に任せて好きに作る趣旨だったので、参加者によって違う物が出来た。
お邪魔させて頂いた二人は、主に子供達の余らせた色を引き受けている。帰りに完成品を見せ合った所、陽真はクワガタとバッタを作っていた。
「これはね、ユニコーン。白が沢山集まったから、もう一つは白だけで作っちゃおうかと思って…………それと、これが」
「シェパードか。色使いが細かくて、よく毛並みを再現している」
もう一つの犬は作った本人が微妙な出来と思っていたから、何かを言う前に犬種まで当てられて少し驚く。
この生活を始めてから、慈玄は犬が好きだと気付いた。本人は照れて隠そうとしているけれど、街で犬に遭遇する度に目を留めている。
彼のふと見せる自然な微笑みは、動物と接している時に出やすい。カオスワールドで桃太郎の役にされたこともあったし、邪心の無い生き物と相性が良いんだろう。
「同じ茶色の動物なら、カンガルーじゃなくてよかったのか?好きなんだろ」
「うん、カンガルーはもうぬいぐるみがあるから。犬もうちに居るといいなぁ……って」
慌てられるから「蒲生くんの好きな動物も」とは言わなかったが、じっと二つの作品を見る姿から気に入っている心を感じた。
早速玄関へ置きに行く背中を見送る。自分も、友人でもある仲間も、同居人の好きな生き物を──分かりにくくとも喜ぶ姿を、見たいと想って作っていた。
「深水。どうした、天気なら明日も崩れる様子はねえぞ」
「さっきの種、どういう配置で蒔こうかなって考えたくて……それに、ほら。今日は凄く星が綺麗に見えるよ」
洗い物も入浴も済んだ頃、寝るにはまだ早いような時間に何となくベランダへ出る。
プランターや数点の鉢植えを眺めてから空へと目をやっていた紫苑が、気付いて背後まで来た慈玄にそう話した。律儀な彼は、静かに隣まで来てくれる。
少しだけ距離が開いた横並び。曇りのない秋の夜空に月明かりもまた映えていて、互いに暫く無言で眺めていた。
「──あれが、ペガスス座だな。二十八宿で言う
あの明るい星々を結ぶと四辺形になり、そこから他の星を繋げたのがペガスス座だ……と読書家の慈玄が教えてくれる。逆さまの馬の形になっているらしい。
秋の星座の代表格であり、ギリシャ神話では乗り手を振り落として尚も翔び続けた天馬が由来とされているんだとか。本なら何でも読む彼の知識は幅広いのだ。
「ペガサスを駆るベルレフォーンは怪物退治で名を挙げたが、増長した末に愛馬も命も墜としてしまった……俺達ライダーとしては、戒めになる話だな」
「騎手は馬と信頼関係を築くのが大事って、高塔くんも言ってたね。星はどこからでも同じものを見られるから、色々な意味が考えられてきたんだろうなぁ……」
知らない物事にどんどん触れることを好む紫苑は、たまにこうして慈玄が何かを教えてくれることも楽しんでいた。
自分が知っていることについて話す時も、その都度感心してくれる。雑談なんて全然しなかった二年前から、二人の時間は随分と性質が様変わりしていた。
「もしかしたら今頃、伊織くんか魅上くんもこうしてるかもね。天体観察には最高の日だから」
「……まあ、魅上は前から星に興味があったようだが。伊織はどうだかな、人が星座を教えても『うーん、どれがどれだか全然分かんねえ!』とか言う奴だぞ」
「ふふ、でも月も星も今日はとにかく綺麗だし────蒲生くんと伊織くん、結構考え方が似てるから。同じように、魅上くんが空を見てるのに気付くかなって」
「待てい。どこがだどこが、偶然意見が一致する時はあるが一瞬たりともそう思ったことなんかねえぞ俺は!」
「どっちも真面目な人同士、とか。近くで見てると、意外と共通点あるよ」
人の言動に籠もる感情を、寄り添うことで捉えられる。
万能ではないが自身の益にも害にもなる性質が、二年前から紫苑に同期の本質を一部は理解させていた。
顔中で釈然としない思いを表す慈玄を横から見つめて、今日帰って来る直前のことを思い返す。作った物を見せ合う他に、紫苑は陽真と少し話をしていた。
『そう、だよな。紫苑なら、気付かない訳ないか』
真夏の頃から、その心に動きがあったと感じている。
彼の認識においてそれはたった一人に向く感情の『変化』で、けれど紫苑には『追加』のように思えた。
慈玄と違い彼は案外隠すのが上手くて、そうだから苦しみを募らせてしまう。でも、隠す動機は似ていた。どちらも、自分の感情を表に出してはならないと考えている。
その思考が自戒から来ている慈玄と違い、彼のそれは恐怖から来ていた。──紫苑がそう確信するのは、件の仲間に自分と『同じ』異質さを感じるからだ。
(……やっぱりあれは、見過ごせない。ぼくは『出来ない』自分が嫌でならなかったけど、伊織くんは『出来ない』自分を……)
疎ましく思うだけならいい。未だ識らないだけでもいい。人の心は十人十色で、そこに何を持ち何を持たないかはそれぞれだ。器のカタチさえ十全なら、正常と言える。
けれど、器そのものに『欠け』がある人間は。避けているのでも、自認に慣れないのでもなく……特定の感情を持ちたくとも叶わない人間は、心のどこかが軋んでいる。
悲しみに沈むことなく前を向けるのも、怒りに惑うことなく向き合えるのも、一種の強みには違いない。それも『自分らしさ』だと捉えれば、戦うための武器に出来る。
反面、その武器は諸刃だ。欠落している人間は、正常な人間との齟齬を避けられない。それ故の『失敗』をする度に器の欠けた心が軋むのだと、深水紫苑は識っていた。
欠落した部位によっては、自身の軋みに気付くことさえ難しく──気付いたら気付いたで『こんな時にさえ解らない』自分へと、倦厭あるいは恐怖を覚えてしまう。
ただ一部が欠けているだけの、他は当たり前に動く心なのに。その一部で『人間らしさ』から外れている自覚は、罪悪感にさえなって苦痛を齎してくる。
「…………水、深水。急に浮かない顔をするな、何か心配事でもあるのか」
その痛みの強い実感を持っているから、同じモノに苦しむ心を慮って。つい思考に沈んでいた紫苑を、そう焦りを含んだ声がはっとさせた。
目が合うことで、当たり前の心を感じる。相手の不安を解消するために出来ることはないかと、懸命に尋ねたがっている心を。
「うん、あるけど。ぼくのことじゃなく、悩んでいる人のことで……その人自身にしか解決出来ない悩みだから、良い方向に動けばいいなって思ってた」
「そうか。あると正直に言えるのなら、こっちも安心するが…………お前は相変わらず、人のことを考え過ぎだ。情けで自分を傷付けるのは本末転倒だろうが」
厳しい物言いの裏には、真っ直ぐな労りが在った。
誰にも真摯なあまり自分を人間嫌いだと誤解して、だから独りで人間の善性を守ろうとしていた姿をそこに想起する。
どこまでも不器用で、どこまでも優しい。そんな心にこそ恋をして、その純粋さが決して損なわれないようただ見守りたかった。
欠落しているから、人間らしい懸命さを輝かしく想う。その気持ちが解る身として、あの友人のきっと必然的に抱いた恋を励ました。
「ライダーたるもの、常に戦える心身を保つべきだ。……今日の相談でもカオスワールドに絡んでそうな情報があったんだろ、まず目の前のことへの集中を忘れるなよ」
「……そうだね、ありがとう。蒲生くんが傍に居ると、気を付けようって意識出来て助かるよ」
むぐ、と呻く慈玄の顔が赤くなる。それを見ればつい笑ってしまって、明日からも頑張る元気が出た。
異質であっても、ありふれた営みを尊く思う。そのような心で選んだ道には多くの困難が有り、それでも貫く
秋夜の涼しい風に揺れる、まだ花を咲かせていない石蕗に見送られて二人で角部屋へ戻った。これからもまた、生きて戦う日々を続けるために。
そうしていれば、色々なことが起こる。掴んだ情報は翌日にもう実を結んでしまい、その戦いもまた激しいものとなった。やったことのない作戦も敢行した。
自分のしたいことと誰かを守ることを両立するべき、両立出来るようにしてくれた背中を二人で押した。努力の甲斐あって、その後には良い知らせを聞けている。
「深水、その……………………依頼が入れば、当然そっちを優先するとして。来週中央地区で古本市をやるそうだから、お前がよければ行かねえか」
周囲の状況が動いて、また幾らかの日も流れて。
陶器鉢の石蕗が咲かせた小さな黄色い花を毎朝楽しんでいた頃、紫苑は慈玄に相当な逡巡を経てそう切り出された。
いいよ、と内心緊張して答える。そこまでもそこからも悩んだり腹を括ったり迷走したりする心を感じていたから、当日を待ちながら色々な覚悟を静かに済ませた。
懸念の通り前日夜に依頼が入ったけれど、この二人で行くことになったしその古本市も絡んでいた。あくまで平和な一件だったので、初めての体験も楽しめている。
何の悪意にも穢されることなく解明された、優しさと切なさを帯びたミステリー。出だしから一悶着あった先輩方とも、最後は仲間達を呼んで和やかに交流出来た。
「もう一度、公園に寄りたい。────お前に、話がある。すぐ終わるから、深刻には考えるな」
思い出となったピザパーティーの帰りに、空いたベンチへと辿り着く。
人影もまばらな夕暮れ、腰掛けて眺めていたのはすぐと言っていたのに黙り込む横顔。
はらはらと紅葉の落ちる静けさの中で、あの時のようにただ見守った。独りではないのだから、流れる時間も苦にはならない。
何を話されるか、想像は出来ている。けれどきっと、直接の言葉を聞けば今のような落ち着きなど装えない。そう考える紫苑へと、遂に煌めくペリドットが向いた。
「ただのケジメとして、一度だけ言わせてくれ。……深水、俺は。お前のことが、好きだ」
何かを始めれば失敗も困難も立ち塞がるけれど、全てに打ち勝った喜びは本当に大きなものとなる。
誰かのために怒れる強さは自分のための喜びも勝ち取れると、ありのままで信じていた。同じではなく齟齬もある、だけど輝かしい心にこそ支えられてきたのだから。
さながらそれは、彼岸から此岸へと渡る船のように。虚像で始まり終わる筈だった恋は秘める春と待つ夏を越え、優しい秋風の流れるこの日現実として結ばれている。
第4話
元より、断られるとしか思っていない告白だった。
まず使命を果たすまで未だ遠い身なのだから、こんな感情を持つこと自体が間違いだ。自分の異変に気付いた時、蒲生慈玄はそう考えている。
しかもその対象はかつての同期で同室で今だと仲間で同居人だが、色恋沙汰に発展するような経緯など全く経ていないとも捉えていた。
親しげな雑談も、現状への嘆きに対する慰めも、そんなものは鍛錬に徹する二年間ずっと交わしていない。そんな時間の価値を、ずっと認めないままでいたから。
志を以て努力を重ねた日々に後悔はないが、あの強さにもっと早く気付けなかったのかと思う。どう見てもこんな自分には、今更想うことを明かす資格など無い。
『そうか。だからキミは、深水紫苑の笑顔について常に考えていられるんだな』
理屈ではその結論にしかならない筈だが、一度抱いてしまった恋は何度虫の良いことをと自戒しても消せなかった。
知らなかった面を知る度に、敬意と謝意を感じる度に、間違いと思う感情が大きくなる。最終的には、その辺りの機微が毛程も無かった筈の仲間にすら気付かれた。
図書館の書架を端から端まで制覇するという、ビブリオマニアでもそうやらないような趣味のある彼なので恋愛小説なんかも読んでいる。
受ける依頼もそうした絡みが幾らかはあった。だから持ち前の古風な堅物ぶりで『恋人たるもの相手の喜びを全霊で大切にするべき』と言う恋愛観くらいは持っている。
……そう考える以上、やはり使命有る身で恋愛などに気を回してはならない。それに努める余裕も資格も、自分に持てるものではないと思っていた。
『……なあ、もう普通に言っちゃっていいと思うんだけどさ。遂に告るの?紫苑に』
しかし。自覚した恋心を秘めることに決めた夏から、慈玄の周囲では季節の流れと共に状況が更に変化している。
それこそ、あの才悟が自分の感情に気付けるような知見を得たくらいに。その後仲間達の様子を見て、生真面目な慈玄は自分の姿勢を改めるべきと感じていた。
個人的な感情を通じ合わせることと為すべきことの両立を、実際に彼らはやってのけている。嫌わなくなった今でも、あいつらに負けるものかと言う意識はあった。
そこから更に一ヶ月は悩んでいる。全く仲良くなかった二年間と関係性が様変わりした同居期間を経たので、今更言い出すタイミングが掴めなかった。
自分は告白すべき相手と違って、やったことのないことをするとどうも裏目に出る。告白はおろか恋の経験なんて、柄じゃなさ過ぎてきっと覚えていない範囲でも無い。
だが、こうなった以上一度は自白するのが道理だろう。ライダーたるもの潔く当たって砕けてやると、冬の手前になってようやく砕ける前提の計画を立てた。
「────」
「!?……落ち着け、深水!一度は吐くべきと思っただけだ、すぐ忘れていい!泣く程嫌でも、二度と言わねえからそんなに──」
この日必ず告白すると決めて、偶然行き会った陽真も思いの外真剣な様子で応援してきた折に相手を誘う。
そこから参考文献をあれこれ読んであれこれ考えるなどした一週間後、とうとう慈玄はその瞬間へと踏み出した。
その途端に、合わせた目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。誕生日パーティーの時と同じく、大変に動揺してしまった。
紫苑の泣く姿はあれだけ見慣れていた筈なのに、すっかり耐性を無くしている。また泣いているのかと思っていた二年前から、どうしてこうも変わってしまったのか。
惚れた弱みとしか言いようがない。どれだけ否定しようとも、最早自分の道には切り離せない程に『泣いて欲しくないし、笑って欲しい』想いが組み込まれている。
「……違うよ。嫌だからじゃなく、また嬉しいから泣いちゃってるんだ」
最初に深水紫苑が泣くのを見かけたのは、アカデミーの中庭で一人嗚咽していた時だ。
何をやっているんだと訊けば、泣くと気持ちがすっきりするんだと答えられた。
泣いている暇があれば自主鍛錬をすべきだ、ストレス解消法としてやっているなら部屋でやれと何の遠慮もなく言い放ったことを覚えている。
二年間の内に何度となく、隣のベッドから声を殺して泣く気配を感じていた。上辺の慰めなら無い方がマシだと何も言わずに、背を向けて落ち着くまで放っておいた。
あの強くなることに向いていない泣き虫が、こんな自分には誰も守れないと嘆いて傷付くばかりの姿が、この場に居るべきではないと思いながらそう過ごし続ける。
最早貴重なありのままの記憶だから、今でもそれらは全て鮮明で。それらの中には無かった喜びに依る泣き笑いを目にすれば、胸が痛みながらも大きく揺れた。
「ぼくもそうだよ、蒲生くん。ずっと──二年前から今までずっと、君のことが好きだった」
参考文献を読んでいたら万が一の可能性も頭に入ってしまいはしたが、現実の返答としては全く予想していなかった言葉が返ってくる。
嫌われる謂れは無数にあった。それなのに多くの知らなかった面を理解したことで惹かれた想い人は、そんな日々の中で自分よりも先にそのように想っていたと言う。
どこにそんな余地がと訊こうとする慈玄へと、涙を拭いた双眸がまた真っ直ぐに向いた。赤く染まった頬の零す微笑みに、視界も意識も一瞬で占められてしまう。
「一度きりじゃなくていい。これからも何度だって、そう言って欲しい。……ぼくもこれからは何度だって、好きな人に好きって言いたいから」
理由は分からなくとも、待たせていたのだと理解した。
住居に迎えられた春の恩には、夏により多くの感謝が上乗せされている。あの折れかけていた時の恩も有るから、到底返しきれはしない。
「俺は言葉よりも、行動の方が示せる質だ。……行動するような関係に、なってもいいのか」
ならばとにかく、努めなければと思った。
こんな自分の行動でこうも喜んでくれたのなら、出来る限りの行動を更に足していくべきだ。
この恋が己だけの喜びではないと識ったからには、もう隠すことも疎むことも出来ない。誰かの喜びを守るための道を、一人へ喜びを返すための道としても歩もうと。
うん、と答えられるなり目の前の肩を掴む。緊張も照れもあまりに膨大だから、勢いでしか動けない。勢いのまま、誓いとして唇を重ねた。
性急だったので歯が当たったし、熱くてならない頭からは「すまん」としか出てこない。そんな自分の目の前の顔はやはり笑っていて、落ち着いた言葉を返される。
しかし相手も口振り程には余裕が無いようで、少しだけ上げた片手を空中で止めていた。剛毅かつ受け身な性分なのだと、もう充分に解っている。
「帰るか」
だから早速、こちらから行動した。
止まっている手をやはり勢いで掴み、このまま帰路へ着く旨を表明する。
自分からも相手からも感じる温度が、秋風の冷たさも忘れさせてしまう。そのような感覚の中で慈玄は、これから紫苑に何をしてやれるかを考えながら歩いていた。
……その考えでは恋人として踏むべき段階が幾つも計画されていたのだが、当日中にスピードを殺す物全て振り落とす勢いで詰められたので破棄する羽目になっている。
生計も戦場も共にしつつ両想いとなり数ヶ月経過したので、踏むべき段階は告白前に全部踏んでいた。そういう訳で、これ以上は回りくどくならなかったのである。
「見て蒲生くん、春菊かなり大きくなったよ。そろそろ収穫出来そう」
同居人と恋人になったからには、この生活形態を同居から同棲に呼び改めるべきだ──と生真面目な慈玄は身構えていたが、そこまで何もかも変わる訳でもない。
一部は物凄く変わっても、元々同居期間を重ねていたのだから基本は同じだ。強いて言えば告白の日以来、紫苑はメンタル的にずっと好調か絶好調のようだった。
基礎体力トレーニングもより一層頑張るからねと笑顔で言われて、無意識に「感心だな深水。好きだ」と口走ってしまうなど慈玄も大概愉快な状態となっている。
「……ああ、やはり家庭菜園は地道な害虫防除が肝だな。収穫したらやっぱり、伊織と魅上を呼んですき焼きか?」
「ふふ、いい時期だしね。蒲生くんもすき焼きにと思って種買ったでしょ」
この頃は大きな事件も起こらず程々に浮かれる余裕も有り、日々の依頼をこなしていれば今年も残す所半月程となっていた。
石蕗は最近花が終わってしまったが、常緑多年草なので青々とした葉を保っている。紫苑はそれを眺めながら、もっと大きくなれば食べるのもアリだねと言っていた。
実は慈玄が陶器の鉢植えを買った時、薦めてきた店員に咲く花の色も聞かされている。小さな黄色い花と言われて思い浮かんだ顔こそが、購入の決め手となっていた。
買って来た時点だと言えなかった真相は、その後正直に自白している。照れてふにゃりとしてしまう恋人の頬を、緩み過ぎだと言いながら撫でてやった。
「やあ蒲生、暫く振りだね。調子はどうだい?……おや、良さそうだ。何かあったかな」
住居でそんなことをしているとは決して他言しない質の慈玄だが、元々隠し事に向かず分かりやすいので進展した関係についても結構察されてしまう。
陽真は告白の結果こそ訊かないがニヤついてくるし、才悟は「深水紫苑が質問出来る範囲を教えてくれた」とだけ平坦に述べていた。
もうそれは仕方ないと割り切ったが、それでも意地で公言していない。なのに仮面カフェに来るなりそう絡まれたので、いつも通り渋い顔で仮面を着けた相手を睨む。
クラス・スラムデイズの一員、ランス天堂。あのミステリ小説を巡る一件を成り行きで共にした、気さくで後輩にも親切だが油断ならない先達だった。
「別に。少なくとも、他のクラスの連中に言う程のことはな」
「そう言われると余計気になる性分でね。先日君達と組んだ時と比べて、入店時の足取りが軽かった。気掛かりなことでも解決したかい?」
「……した。後は黙秘だ、最低限の回答もしなかったら意味も無く尾けそうな奴だからなあんたは」
「その口振りだと『仲間には言える範疇』で『調べられて損失は無いが教えたくもない』がキーワードか……どうやらプライベートな話らしい、じゃあ止めておくよ」
悪人に過敏な慈玄も、彼を何か企んでいると思っている訳ではない。ないが彼は、純粋に気になったからと言うだけでこんな流れにしてくる人物だ。
一目置くべき頭脳と推理力で要ることも要らないことも解いてくるから、協力してくれる時は助かるがやはり油断ならないと慈玄は評している。
「警戒させたお詫びに、有益な話をしよう。僕達のライダーシステムは精神力で制御するから、気分が上がると戦いやすくもなる。それを共有する仲間が居れば尚良い」
「俺もここまで戦ってきて、そのぐらいはもう実感している。有益と言うには今更だ」
「それはあくまで、契約を同じくするクラスでの話だろう?人間なんだし、他のクラスのライダーとも多少の共通点は皆に有る。と言う訳で、有益なのはここからだ」
企みなど無くとも、気になりさえすれば好奇心のままに嗅ぎ回る。
それ故ランスを煙たがるライダーは他にも数名いるが、そんな彼が個人的に調べた事柄は度々物事を進める鍵となっていた。
「前の件を例にすると、僕と蒲生は言うなれば『ひと時の相棒』だった。理念の外で局所的に強く
「俺は探偵助手じゃねえ。……あれは変身する用事のない、悪事に無関係な話だったが。契約と違う理由で心を通じ合わせても、ライダーは強くなれるってことか」
「クラスが揃う程の安定性は、流石に無いようだけどね。うん、だから──プライベートな関係が深まれば、共に戦う助けにもなる。一石二鳥だ、今後とも仲良くね」
どこまで察されたのか、慈玄は本当に親切だけでそのようなことを伝えられている。
相手が「正規の手札のみで出し抜けてこその知略だろう?僕はQみたいな性悪じゃないよ」と宣う人物だから、虚偽ではないと見ていい。
タレコミがあればすぐ検証するべきだと言う生真面目さで、後からまた紫苑と二人組でのトレーニングを試した。すると本当に、ライズの出力が少し底上げされている。
元々両想いを伏せたまま長期間過ごしたからか、飛躍的な伸びではなかったが。それでも確かに、関係を先に進めて通じ合った事実は互いの力とも成っていた。
「今ならお前の協力があれば、俺の考えも実現出来るかもな……深水。お前の技だが、敵を囲んで一纏めにすることにも使えないか?それで俺の技の射程を補いたい」
「基本の動きをもっと大きな円にすれば、そういうことも出来るのかな……つまりその分ライズの消費も更に大きくなるから、問題はぼくが保つかだよね」
慈玄の決め技・義勇の大連弾は、拳から撃つライズが拡大した砲弾の炸裂で高い威力と制圧力を発揮する。しかし、力を溜める隙と射程の短さという弱点も有った。
紫苑の決め技・バイオレットスパイラルは、全身で回転しながら突撃するため広範囲の敵を巻き込みやすい。しかし、体力のセーブが利かないため持続時間は短い。
四人が揃っていても、練度の高い敵に数で来られれば分断を狙われもするだろう。慈玄はそうした想定から、より強力な二人用の連携攻撃を創れないかと考えている。
紫苑が敵に散られるのを防ぎ、慈玄が一網打尽にする。コンセプトは作りやすくとも、それだけの大技なら一撃で勝負を決められる出力のライズが双方に必要だった。
これまではそこへあと一歩足りず、机上の空論に留まっていたが──その一歩を進めた現状ならば、実戦で使うことが叶うかも知れない。
「そうする必要がある程の戦いなら、全員で出し切らなきゃいけないんだと思う。……うん、頑張ってみよう。ぼくも、蒲生くんのお陰でやれることが増えたから」
中央地区で古本市が開催される前から、二人の間ではミステリ小説ブームが起きていた。
互いに目を付けた作品を薦め合って読む楽しい時間の中、紫苑はふと世界的に有名な古典ミステリの記述へと関心を寄せている。
『あったぞ、深水。この本ではバリツがバーティツの誤記とする説を採用しているが、柔術の誤記という説もあるからな……棒術を含めて、関連する教本も借りて来た』
小説に登場する格闘技を深く知りたいと話した所、図書館の蔵書に精通する慈玄が参考文献を集めてくれた。
ライズの武器化と合気の複合を戦闘に取り入れている紫苑なら、近い性質の格闘術も吸収出来る。そう真剣に受け止めて、実戦で使えるよう協力したのが彼だった。
そう理解して強まった意志は、かつて全く揃わなかった二人の足並みを更なる研鑽の道へと歩ませている。
「…………わ、寒い。来る前より冷え込んだね、夕飯は温かい物にしないと」
「虹顔市の年間最低気温は一月下旬に来るそうだが、今からでも油断は禁物だな。……暫くは、日中以外ベランダに出ない方がいいぞ」
基礎体力の向上で紫苑のジョギングも以前より時間を増やせているが、風の冷たさで体調を崩さないかと慈玄は多少心配していた。
年内でも雪が降る時は降るようだし……と考えた辺りでふと気付く。来週にはもう、クリスマスイブだ。
ハロウィンが終わるなりクリスマスへ備え出した街中を見ても、それに乗じた犯罪が起きていないかと思ってばかりいた。だが他に失念出来ないことも、今では在る。
恋人たるもの相手の喜びを全霊で大切にするべきで、ならば季節のイベントも見逃さないべきだろう。生真面目にそう考え、何をするか早速悩み始めていた。
「ねえ、蒲生くん?クリスマスになったら、四人でパーティーしようか。一からローストチキン作るのやってみたかったし、他にも色々……きっと、凄く楽しいよ」
その心を感じたのか、癖で眉間に皺が寄っている慈玄の横からふわりと覗き込んでくる顔に気付く。
二人並んだ身長は、紫苑の方がほんの数センチだけ高い。と言うか、ジャスティスライドの中では慈玄が一番低かったりする。二番の才悟とも1センチしか違わないが。
ついでに五期生の中でも二番目に低いことを、大した差はなくともベタに気にしていた。平均以上だとは分かっているが、男には理屈じゃない気掛かりもあるのだ。
とは言え隠したい犬好きの慈玄は、紫苑にこうされると人懐っこいゴールデンレトリバーを想起するので嬉しくも思う。恋人として複雑だった。
「どこでも何かしらやる日だから、依頼は必ず入るだろうが……全員の暇が何時間かは残るよう、今から調整を意識するか。前日に詰められる分は詰めてもいい」
伊織にも連絡しておく、と伝えればすぐ近くの顔が嬉しげに綻ぶ。
戦う身である以上何の時期だろうと常に気を抜いてはならないと思うのに、紫苑がしたいと言えば二つ返事で了承してしまった。
自分らしく生きることを望み、自分の世界が広がる楽しみを笑顔で表す。そんな姿にどうも弱いのだと、慈玄の内心は疎ましく思うこともなく認めていた。
「四人分のクリスマスディナーなら、やっぱり食器も拘りたいなぁ。フリマとかで手頃な良い物を探しておくね」
「ああ、それはいいが。ディナーじゃなく、多少遅くても昼にしないか?夕方には切り上げたい」
「それでもいいけど、夜に何か予定とかあったっけ?」
「同じクリスマスの楽しみでも、仲間内で集まるのと二人きりになるのはまた別だろ。一日で両方取るなら、やはり日が落ちて以降はお互い水入らずで────」
「蒲生くん…………そういうことは照れずに言うの、本当にそういうとこ…………」
ひたすら真摯でいようとする不器用な生真面目さは、きっと人生初の恋愛において時々無自覚なまま恥ずかしい発言へと至る。
照れ屋であるにも関わらず照れるようなことと気付く前に言うから、そんな時だけ言われた側が先に赤くなってしまっていた。
その反応を目にして言った側もようやく自覚するので、ワンテンポ遅れて照れてしまう。そうして発生する空気感には、双方まだまだ慣れていなかった。
「見ろ深水、ポインセチアが安い。買って行くか」
「本当だ、こないだより値下がってる。クリスマス前に売りきりたいんだろうし……買っちゃおう。居間に置けばパーティーも華やかになるね」
トレーニング帰りにそのまま買い物へ向かっていたので、花屋の掘り出し物も見つかっている。
クリスマスの花として日本でもポピュラーなこの植物は、南米原産で寒さに弱いため室内用サイズの鉢植えが売られやすい。
家に置くなら温度差で散るのを防ぐため、もっと早い時期の購入を推奨されているとか。ワゴンにぽつんと鎮座する赤色は、この日角部屋の一員として引き取られた。
「前に見た時は新しいスパイスを買ったばかりで、ちょっと気になったけど見過ごしちゃって。安い分扱いにくくなってるから、慎重に管理しないと……」
「暖房を点けっぱなしにする訳にもいかねえが、やりようはある。まず保温だな、ビニールで覆うのはすぐ出来るし乾燥対策もこっちが気を配ればいい」
同居人が家庭菜園を始めたならこちらも詳しくなるのが責任だと、律儀な慈玄は早い内から園芸の本をよく読むようにしている。
テレビの横に置いたポインセチアを前に、やはり真剣な顔で買うのが遅かった不利の打開策を考えていた。
まず最低限来週のパーティーまで保たせるとして、クリスマスが過ぎても手入れ次第でもっと長く育てられる。そう計画を立てつつ、隣の紫苑をちらりと見た。
依頼で得た報酬はまず四人の生活費に充てられ、残った額以上の欲しい物があれば各自短期バイトで工面する。その辺りも、実は既に着手していた。
(保温……年明けにもっと気温が下がることを考えれば、ユニフォームの邪魔にならないような防寒具も……)
築四十年アパートの角部屋に住む二人は、どちらも地道で丁寧な作業が自然に出来る質だ。
売れ残ったままあわや廃棄される所だったポインセチアも、慈玄の目に止まったその後きっちりと綺麗な姿を維持されている。
そうして一週間を経て迎えた、クリスマスイブ当日。やはり依頼が入ったクリスマスツリーの設営に、仮面ライダー屋の全員がかりで朝早くから昼まで取り組んだ。
約束していたパーティーの料理は、張り切った紫苑が前日から大半用意してある。二時間後に集合として、追加の買い物を二人で済ませに行った。
「年越し蕎麦とか、本格的なおせちも作ってみたいんだ。食器を探してたらその辺りも色々見つけたし、蒲生くんが秋に買って来た瀬戸物もみんな使いたいし」
「お前は本当に、次から次へと興味を持つな。……そう言うならあいつらも、今回と同じくらい楽しみにしてくれるだろ。正確には伊織がか」
「ふふ、魅上くんもああ見えて結構楽しんでるよ。でも今一番楽しみな心を感じるのは、蒲生くんからかな。隣に居るし、ね?」
「そこまで浮かれてなんか……いなくもは、ねえが。ったく、認めるまで問い詰める気かまた」
その間更に入った依頼も二人の仲間で片付けてくれて、何とか昼食と言える時間にジャスティスライド初めてのクリスマスパーティーが開かれる。
買い物中に紫苑が「どうせ昔飲んだか誰も分からないんだし、今日みんなで飲もうよ」と手に取ったシャンパン風のジュースで乾杯した。
見るからに子供向けの包装なので慈玄は恥ずかしかったのだが、真っ先に才悟が「覆面戦士の絵だ」と無表情のまま食い付いてきたので良しとする。
「うわー、近くで本物見ると凄い迫力だな!本当に丸ごとのローストチキン作ったんだ、やっぱこういう時の紫苑は流石過ぎる!!」
「ありがとう伊織くん、ぼくも完成した時は感動して……皇紀さんの紹介で手に入った放し飼いの地鶏だから、プロが使う食材に恥じない味に出来てたら良いな」
「紹介と言うか、市場で突然生産元の連絡先メモを押し付けられたそうだが。恐らくは深水の目利きを認めて、より良い物を使わせたいと思ったんだろう」
「オレもまなぶからクリスマスを教わったが、なぜ鶏肉を食べるんだ?この鮭もクリスマスに必要な物なのか?クリスマスと鶏と鮭には、何の関係があるんだ?」
「おれは単にチキンあると豪華だからって思ってたな、サーモンは赤いからじゃない?クリスマスには赤だろ、サンタもそこにある花も赤いし」
「伊織陽真。ポインセチアの赤い部分は葉で、花はその中央に集合している黄色い部分だ」
「言ってやれ魅上、こいつの認識は毎回適当なんだ。いいか、どちらもまずヨーロッパの風習が源流で──」
ローストチキンとサーモンのマリネをメインにその他も細々とした料理が、お洒落な食器と共に角卓袱台の隅々まで並んでいた。
体を動かす十代の男四人が集まれば、そのぐらいの量でもちゃんと食べきれる。ツリー設営の依頼が長丁場だったので尚更だ。
紫苑だって見かけによらず料理はたっぷり作るのが好きで、学校のカオスワールドでも大きなクレープを笑顔で持ち歩いていた。
「ところで、深水紫苑。そこに下がっているのは、何だ?クローブ……乾燥させた丁字の蕾だったか。なぜそれがオレンジに刺さっているんだ?」
「本当だ。おれも食べて話すのに夢中で、才悟が言うまで気付いてなかったな……めちゃ黒いやつ刺さってない?あれも何かの料理なの?」
「ポマンダーって言うんだよ。香料を固めたお守りのことなんだけど、ヨーロッパではクリスマスにフルーツとスパイスでそれを作る習慣があるみたい」
「香りは魔除けとなり、幸運を呼ぶと言う考えが元とのことだ。一見古い迷信のようだが、香料の防腐及び防臭効果をそう解釈して伝えてきたんだろう」
話好きの陽真と無言たまに話の疑問点を質問する才悟に、無愛想ながら律儀な受け答えをする慈玄と作る時も食べる時も上機嫌な紫苑の揃った空間は声が尽きない。
去年まではこんなことをする心境も環境も共通していなかった四人が、今はこんなにも賑やかな時間を共有している。出来るように、なっていた。
「お待たせ。ぼくたち初めてのクリスマスだから、ケーキは王道中の王道で作ったよ。苺の量も奮発してるからね」
「紫苑~、どんだけ気合い入ってたんだよ最高!店でもこんな丸ごとのショートケーキ見ること早々ないよな、本当にお菓子の王様って呼んでいいぜこれは!!」
「ショートケーキ……どこが短いんだ?他のケーキはこれより長いのか?」
「お前は確実にそれを訊くだろうと思って、俺が調べておいた。まず『short』という英単語の意味は、『短い』だけじゃなく──」
先程の買い物は本当にすぐ使う品を調達しただけで、これだけ大掛かりな料理の食材が台所に集まったのは前日のことだ。
日中から作業を始めたいだろうと、その時の依頼は慈玄が全面的に引き受けている。期待してていいよと言う紫苑の目は、とても楽しそうにキラキラと輝いていた。
この生活を始めてから書き始めたレシピノートにも、更に数日前から計画を記している。それを知る慈玄は実の所、無事パーティーを開けたことに安堵していた。
「なあ慈玄、やっぱおれたちもう出るのまずくない?あの量の洗い物だと、二人でも時間かかるだろ」
「うちの流しはそう何人も物理的に入らねえ。こっちがいいって言ってるんだからさっさと行け」
「うん、大丈夫だよ。片付けと掃除を手伝って貰ったし、充分助かってるから」
「指示によると、このケーキは明日食べればいいんだな。深水紫苑、蒲生慈玄。ありがとう」
予定通り夕方の頃お開きになって、用事が出来たらしい陽真を送り出す。
甘い物を一日に食べ過ぎたらいけないと言うことで、ホールケーキは半分残していた。用意していた持ち帰りの箱を才悟に持たせて、角部屋へ静けさが戻る。
確かに料理の数に伴い洗い物も大量にあるが、調理中に出た分は昨日片付けているから一日で全てやるより格段に楽だ。
いつでも日課のパトロールを欠かさない慈玄は、紫苑ときっちり食器を綺麗にしてから外に出て行った。
「おかえり、蒲生くん。寒かったでしょ、お風呂湧かしておいてるからすぐ入れるよ」
「ただいま。……ああ、助かる。出掛けた途端にまた降り出したからな」
ツリー設営の終わり頃に、ちらちらと雪が降っている。今も同じような降り方なので、積もる程ではなさそうだ。
とは言えそのぐらい気温が下がっているのだから、早い内に体を温め直した方が良い。普段より遅い時間に日課をこなした慈玄も、そうして一息ついた。
次に入浴を終えた紫苑が、日記も兼ねたレシピノートに記述を足し始める。浴室掃除の物音を小さく耳に拾いながら、日中の賑やかさを思い返していた。
「…………深水、その。何だ、ここからは俺達だけの時間になる訳だが」
本日の家事も一段落して、戻って来た慈玄は見るからに緊張した様子でそう切り出す。
手には商業地区のデパートの箱。昨日紫苑がパーティー料理の準備を始めた頃、依頼のついでに買いに行った物だった。
この日は初めて四人の仲間内で過ごすクリスマスであり、初めて恋人同士で過ごすクリスマスでもある。幸運なことに、その大切な昼も夜も大事なく迎えられた。
「ありがとう。このまま開けても、いい?」
忙しくしていた紫苑は、このことまで事前に察せてはいない。けれど彼のことだから、きっとプレゼントの用意があると予想している。
感じる心に自分も緊張させられて、少し詰まった声で尋ねた。既に赤い顔が神妙に頷くので、鼓動を高めながら箱の包装を取る。
「わぁ……!マフラーだよね、ふわふわで長くて……凄く暖かそう。このカンガルーの刺繍も可愛いなぁ」
「ユニフォームに足すことを考えると、防寒具は機能的な物一つが良いと思ったからな……この長さがあれば、緊急時に色々と活用することも出来る」
チョイスの観点は無骨だが、お洒落な店で買っただけに見栄えも良好なグレーのボアマフラー。
詳しい仲間と違い慈玄はファッションがさっぱりなので、まず店員に必要事項を伝えた。
合わせる服の色も訊かれて、取り敢えず紫苑がよく着るコートのそれを答えてもいる。
出てきた中に恋人の好きな動物が刺繍されている物があって、色の取り合わせも自分は全く分からないが店員はプロだからと信じて決定した。
誕生日のことから先に何が欲しいか訊こうかとも思ったが、パーティーの準備をあれだけ楽しんでいたのでここは集中させたいと判断しての選択である。
「俺は男なら黒を着ていればいいと思う質だが、お前は伊織と何かしら服を選ぶのも好きだろ。きちんとした店の物だ、悪いようにはならない……と思う」
「うん、折角だからこれで色々コーディネートしてみたいな。本当に、凄く嬉しいよ。……嬉しいから、ちょっとした物でも今お礼するね」
実はここ最近その陽真もクリスマスプレゼントに色々と取り組んでいて、締め括りにマフラーを選ぶと紫苑は聞いていた。
恋人と友人の考え方がやっぱり結構似てるとまた楽しくなり、ふふと笑みを零して立ち上がり台所へと向かう。
「ポマンダーを作っても、まだクローブは沢山あるから。シャンパン風のホットワイン風、即興だけどきっと温まるよ」
パーティーに出したシャンパン風ジュースは、まだ一本残っていた。
人数に合わせて四本買ったけれど、真水派の才悟が居るので全部は空かなかったからだ。
洗い物が終わってからでも、小鍋とグラス程度なら使って構わない。そういう訳で、手付かずだった小さくて可愛いキャラクターの包装を開いている。
「蒲生くん、これで雪見しない?ベランダは寒いけど、窓からなら大丈夫だし」
「風流なことを考えたな。一日の終わりらしくなる」
見晴らしのいい角部屋の窓。風流な雰囲気を高めようと、居間の照明を消して二人で外の景色を眺めた。
即興のアレンジと言いつつ出てきた飲み物も品の良い味で、寄り添う体温をじんわりと上げてゆく。
紫苑がお世話になったシニアホームを含め、教育地区の住宅街にも案外イルミネーションを灯している建物はあった。夜空からは、やはりちらちらと雪が降っている。
「……ポマンダーは乾燥しきって完成なんだけど、そこまでまだもう少しかかるみたい。でも、今吊るしてても良い香りだよね」
「魅上も料理とは違う匂いがした先を見て、あれに気付いたんだろうな。お前が作る時は、クローブの他にもスパイスの粉を色々出していたか」
「うん、シナモンと何種類かのパウダーをまぶしたから……うちにある物でオリジナルの調合にしたんだ、
先程尋ねられたクローブが大量に刺さったオレンジは、この窓の傍に吊るして乾かしていた。
大学構内での仕事を終えた夏の頃、紫苑が依頼を受けて思い出のポプリ探しを手伝ったことは慈玄も聞いている。
嗅覚は最も長く記憶に残る情報で、香り一つが遙か過去の思い出を蘇らせることさえあるらしい。吊り下げられた果物からは、この生活で知った多くの匂いがした。
「防腐効果の高いクローブを刺して水分を抜くから、フルーツポマンダーの香りは何年でも保つんだって。これからの幸運を祈るために作られるのも納得だよね」
「エジプトのミイラ作りにも通じるものがあるな。長く残る風習について調べれば、それぞれの土地に生きた人の知恵が見て取れるから面白いぞ」
「大切な何かが無くならないようにしたい心は、どの時代のどの地域の人も持つんだと思うよ。誕生日の後で蒲生くんがくれた、押し花の栞もそういう物だし」
紫苑の誕生日を祝った後日、慈玄は行きつけの図書館が開いた体験教室に参加している。読み聞かせなどのイベント手伝いをたまに頼まれるのだ。
様々な種類の押し花を図鑑片手に観察するという趣旨で、参加者は最後に好きな押し花で栞を作って持ち帰った。手本になる側の慈玄も、余った中から選んでいる。
残り物には福があるとはよく言ったもので、そこに誕生日プレゼントへ入れようとしたがいまいち難しかった花があると気付いた。
主に仏前へ供えられる花だから、市販のフラワーインテリアには中々使われていない。恐らくは意味に気付かれていたその花の栞を、ただの土産として渡している。
十月十六日の誕生花。遅くなってもそれを贈りたかった相手の名前は、その日に生まれたことを誰かが由来としたのだろう。
「……その時も今日も、どの思い出にも結び付けられる香りを形にしたかったんだ。一つだけ取り戻せた記憶にも、それが在ったから」
「深水────」
晩春から歳晩まで、この角部屋でありのままの記憶を幾つも重ねてきた。
深水紫苑はそれでも未だ、二年より前の記憶を僅かにしか奪還出来ていない。
ジャスティスライドにはもう一人、彼と同様の経験をした仲間がいる。短過ぎてよく分からなかったと、何のこともないように笑って明かしていた。
つまり四人の内の二人は、僅かにさえも奪われた記憶を見つけられていない。一人は初めから虚構の過去すら持っていなかったが、もう一人は。
人の悪性を過敏に嫌い、人の善性を素直に敬い、多くの誰かが積み重ねたモノを守ろうと今も志して戦う蒲生慈玄は。偽り無き自身の過去を、何も手に出来ていない。
「泣くな」
そのような身だと理解していながらも、己の見出した道を懸命に歩み続ける。
どこまでも不器用であまりにも真摯な男は、暗さに慣れた目がアメジストの滲みを捉えるなりそこへ手を伸ばした。
そんなことをしようなどとは、たった一年前になら思わなかったけれど。今となってはどうしても、このようにせずにはいられなくなってしまっている。
「今日のお前は、ずっと喜んでただろ。ならそれで良いだろうが、楽しい日の終わりに落ち込むんじゃねえ」
「うん、分かってる……ごめんね。好きな人のきっと大切なものが奪われたままでも、ぼくは怒れないんだって思ったら……胸が少し、きしきしとして痛くて」
誰にだって本人にしか感じられない何かが在り、他者である以上その全てを理解することは出来ない。
それでも解りたいと願い行動する意志を持つことが、誰かのためを思う人の努めだろう。そこまで具体的に言い表せないが、慈玄はそう信じていた。
「……カオスワールドを開かされた被害者の傾向からして、俺達の過去にも何かしら良くはないことがあったんだろう。ここまで戦っていれば、そのぐらい予想は付く」
喚起される感情が怒りであれ悲しみであれ、自分も相手も悪意の類に影響されやすい性分を抱えて生きている。
慈玄がその共通点をきちんと理解したのは現実へ放り出されてからで、それ故に他者への労りを忘れない同居人を尊敬し慮るようになった。
「それが何だろうと、やるべきことは変わらねえ。この景色を悪から守り、既に奪われた分は取り返す。俺のライダー道は、先だけならはっきり見える道だからな」
「蒲生くん…………」
「あくまで、先だけだ。先以外は何度か見失ったし、その都度お前に助けられている。出来ないことに傷付くよりは、出来ることを誇った方が良いだろ」
偽ることなく、その想いを下手な口で言葉にする。
それが出来るようになったのも、恋にさえなった敬意を抱く人間の功績なのだと伝えたかった。
この
その想いに照らされながら、今もこうして目指す先へと歩めているのだから。
「そう、だね。──そう思える心は、誰にも裏切られて欲しくない。ならまずは、ぼくがそれに応えないと」
「そうしてくれれば、助かる。……俺はまだまだ未熟で、今後もお前に心配を掛けるだろうが。少なくとも今は、お前が笑って一日を終えられればそれで良い」
雪舞う夜空の下にはありふれた人の営みが在り、その事実を尊べるから守るために戦っている。
その意志を共にする道中で心をも繋いだ相手が、今こうして隣に居る。涙を拭いて頷く姿が、暗い中でも際立って美しく見えた。
「本当に、ありがとう。失敗しても、遅くなっても、蒲生くんは諦めないから……ぼくも、頑張ろうって思えるよ。ポインセチアも、ちゃんと元気だしね」
「店員さんには今からだとすぐ落葉するかも知れないと言われたが、相応の知識と姿勢を以て管理すれば挽回出来る。人生も……新しい格言はこの線で行くか……」
クリスマスの花として知られるポインセチアだが、炎のように赤く広がる部分は葉であり本当の花は中心の小さな集まりだ。
自分達もジャスティスライドとして団結することで、出来ることが大きく拡がっている。そこに共通点を見出して、慈玄の口元がふっと綻んだ。
「深水も泣き止んだことだし、多少早いがそろそろ寝るか。洗い物とポインセチアの保温もすぐ終わるから、他にもうすることは──」
「え?一日の終わりって……本当にもう終わる気なの?」
温かい飲み物も空になったので雪見もお開きに……と考えた恋人に、紫苑が気を取り直すなりそんなことを言ってくる。
ごほっと咳き込んでしまった。怒りの感情が無いと言う紫苑だが、怒り以外の理由で看過出来ないことにはどこまでも食い下がってくる。
「ぼくたちもう恋愛関係やってるし、一緒に住んで初めてのクリスマスだし、ここまでムード作っててそれは無いよね?そういうのはちゃんとした方が良いと思う」
「ぐ……切り替えが早い……!いや泣くなと言ったのは俺だが、お前は昨日から動き詰めで疲れているだろうと……!!」
「楽しかったし、流石に依頼や戦闘よりは疲れないよ。水入らずって言ってたのも蒲生くんだし、ぼくだって……好きな人のこと、もっと喜ばせてあげたいし」
心根の強さに惹かれたのでそう言及しないが、慈玄にも健全な男として惚れ込んだ相手を可愛らしく思う時はちゃんとあった。
上品な嫋やかさも王子様然とした凛々しさも醸し出せる紫苑は、ほんの数センチ頭を低くするおねだり上手な仕草が似合うタイプでもある。
相手の行動を引き出すためなら全力で前のめりになれる受け身な剛毅さは、二年以上も想いを寄せていた相手の弱みを的確に突くことへ躊躇しない。
「感じてたよ、ずっと。みんなで過ごす時間が楽しい心も、二人で過ごす時間が嬉しい心も──今日が終わるのを勿体なく思う心も、君はぼくと同じくらい持ってる」
あの全く仲良くはなかった日々のどこで、全く親しみの無かった自分にそんなことを想ったのか。
慈玄の疑問への回答は、既に紫苑から告げられている。無遠慮に怒りも呆れもしながら、それでも目の前の相手が立ち上がるのを待ってくれた時がそうだと。
初めに惹かれたのはそのようにする姿だけれど、今は何より自分の喜びへ素直になっている姿を見るのが好きらしい。
恋の喜びは疎まずとも慣れないもので、意識して表に出している訳ではない。だけど愛した笑顔がそれを見つけてくれているのなら、その瞬間を大切にしたかった。
とは言え、照れ臭いものは心底照れ臭いので。不器用な男は後頭部を掻いてから、細身の肩へと真摯に両手を伸ばす。
「…………強かな奴だな、お前は」
「ふふっ……そうみたい。好きな人に自分らしくさせるためなら、何でもしたいからね」
また楽しげに微笑む、随分くるくると変わるようになった表情だけを視界に収めた。
思い出を結ぶポマンダーと二人の飲んでいた物は、使われたスパイスが幾つか共通していて。静かに近付く互いの口にも、お守りと似た香りが僅かに留まっている。
その先で違う形の心と心を繋げる瞬間、溶け合う同じ
第5話
大きな動乱こそ起こらなくともすべきことは尽きないし、その合間に新しく楽しめることを探せば暇と感じる暇もない。
未だありのままの希少な記憶の多くを占める二年間において、ありふれた季節の催しとはずっと縁遠かったのだから尚更に。
当たり前の年の瀬だって、このような身には新鮮なイベントだ。そういう訳で、クリスマスが終わっても紫苑は胸を踊らせている。
「手頃な値段で良い食器を探してると、調理器具も掘り出し物に出会えるから楽しいんだよね……麺包丁までお得な物を見つけられて」
「十段の重箱まで売っていた辺り、中古品巡りの奥は深いもんだな。深水なら時間の問題とは思っていたが、実際に蕎麦打ち道具が揃うと壮観だ」
「もう少し安いのがあれば、パスタマシンも欲しいんだ。自家製麺は幾らでも追求出来るものだし……まず最初の手打ち蕎麦をどこまでやれるか、頑張ってみるよ」
激動と言っても不足なぐらいに色々なことの起きた一年が、とうとう終わりを迎えつつあった。
やったことのないことは何でもやってみたい質、かつ料理好きで腕前も素人離れした域。そんな紫苑の挑戦は、年越し蕎麦とお節料理の同時進行にも至っている。
椎茸が本当に受け付けない慈玄のため昆布と鰹節の合わせ出汁を使うなど、パーティー料理同様に細かく考えてはレシピノートに書くのも楽しんでいた。
「やっぱり、初めて作ったから改良の余地有りだね。断面は悪くないけど、コシ自体が今ひとつ……捏ねの熟練には最低三年要るそうだから、まだまだ遠いなぁ」
「いやいや、充分旨いって!粉からやってるんだろ?それで最初から麺になってるのがもう凄いじゃん!」
「初心者らしく二八蕎麦にするとは言っていたが、初心者の域では確実にねえな。深水は料理となれば何でも職人級の出来を見据えるから、ストイックさに感心する」
「……冷たい蕎麦と温かい蕎麦は、入れ物も全く違うんだな」
年越し蕎麦と普通の蕎麦の違いを質問されたりもした、今年の昼食収めはやっぱりジャスティスライドの四人揃って。
重箱に詰めた正月料理の仕込みも終わった後、角部屋の二人は響いてくる音の中で一つの画面を見て陽真と通話している。
案の定才悟はとっくに寝たから、新年のカウントダウンは起きている三人で。俺は除夜の鐘を突きに行きたかったんだと言いながら、慈玄も付き合ってくれていた。
紫苑がお節作りに取り掛かる時も、自然と四人で過ごす正月を想定していて……そんな彼の変化を、しみじみと嬉しく思っている。
『ぼくも作ったことはないから、挑戦してみたくて。難しそうだけど、料理の幅が広がればみんなの好みにも合わせやすいしね』
『何か手伝えることがあれば言えよ。……その、上手く出来るかは分かんねえけどな』
二人で買い出しに行った時も、あの初めて作った弁当よりは良い仕事をしたいと意欲を表明していた。
伝統的正月料理に洋風アレンジも交えた折衷の三重、というテーマに取り組む紫苑の横で蒲鉾や野菜を慎重に切っていてくれて。
品目の案も一部出してくれた慈玄は、この生活で随分と料理への知見を得られたのだと言う。またたっぷり作ったので、仮面カフェにもお裾分けしに行った。
アカデミーでの二年間は生活における制限が多く、それでも気晴らしに何かしら作っては振る舞っていた紫苑にとって……本当に、有意義な年末年始となっている。
「──居間で飾っている書き初めは、新年の朝一番に蒲生くんが書いたんです。力強くて丁寧で、良い字ですよね」
「ああ。俺の店にも従業員一同の書き初めを出したが、あの書を手掛けられる者には是非教授願いたかったな。蒲生の趣味は格言作りだったか、あれもオリジナルか?」
「はい。『茨の道も手を掛ければ薔薇色』……前向きで実直で、彼らしい言葉だからぼくも気に入っています」
「十二月に買ったポインセチアの葉付きを保てるだけあって、園芸の本質をよく捉えている。家庭菜園の越冬対策も万全で、こちらも教えた甲斐があると言うものだ」
依頼も入らず正月にするようなことは大半興じることが叶い、守るべき平和の価値を噛み締めながら四人で初詣にも行った。
……その帰りに急なオファーを受けた紫苑は、他のクラスのライダーとタッグを組んで餅つき大会に出るという思い掛けない状況に巻き込まれている。
「何事も、新しく取り組めばそれだけ情報が集まり己の糧となる。俺も単に付き合いで受けた話だが、お前達ジャスティスライドの働きを間近で見る収穫を得られた」
一般的な餅つき大会とは大分乖離した様式なので、パフォーマンスから餅料理の研究まで三が日中取り組むことにもなった。
虹顔市の仮面ライダー中トップクラスの経験と実績を有する、クラス・ウィズダムシンクスを率いるリーダー。商業地区の高級ラウンジ支配人でもある先達の宗雲。
彼こそ紫苑とタッグを組むことになった相手であり、店の名を背負う以上最善の結果を出すと言うことで準備期間中はこの角部屋へと出入りしている。
依頼が入らなかったのは正月当日だけで、翌日以降は仮面ライダー屋の新年初仕事も来ていた。紫苑をこの件に専念させるため、慈玄が外出の用事を引き受けている。
「……見れば見る程に惜しい。お前の才覚はどこをどう取っても、真実を求めるのに有益だからな。他の三人も成長を期待出来る芽だが、深水だけは即戦力級と言える」
「出来ることとしたいことは、同じだとも限らないので。あなた程の人がそう心から評価して下さるのは、落ち零れだったぼくの身に余る光栄ですが」
夜の街で人心より集めた情報という武器を扱う宗雲からすれば、紫苑の人間性と能力は業務に合わない若さを除く全てが魅力的だった。
有望な人材を引き抜こうとせずにはいられない性分の彼は、過去にも何度かこのような将来的な誘いを持ち掛けている。
そして人を労ることを忘れない、転じて人の心が傾く様を見過ごせない性分の紫苑は、その本心からの勧誘を諦めがたい思いも感じつつ毎度丁重に断っていた。
「もっと向いている別の道があるとしても、ぼくはジャスティスライドのライダーとして戦うことこそ最良だと信じます。でも、こうしてただ交流するのは歓迎ですよ」
「ああ、解っている。そう言えるだけの経験を共にした仲間なら、今後も大切にすると良い」
相手も無理にとまでは言わず、そう返してくれる。
他意抜きに面倒見の良い人でもあるため、家庭菜園を始める時など純粋な助言なら有り難く頂戴していた。
立場に驕らず高い向上心と好奇心を持ち、今も台所を借りて様々な改良案を試している。道こそあくまで違えていても、人間的な相性は良い二人だった。
「──こう連日教育地区まで来るのも、随分と久し振りだ。ウィズダムを構える前は、カオストーン情報のある所どこにでも向かっていたものだが」
紫苑より十以上は年長であるだけに、宗雲が戦ってきた期間は長い。
ジャスティスライドを導いたエージェントの実父たる先代の存命時は、やはりライダーが少ない分カオスイズムに対抗するのが今より更に数段困難だったようだ。
激務からか病に倒れた先代の死から二年、当代のエージェントの尽力あってようやく虹顔市の各地区に各クラスが根付いたと言う。
「未熟なりに、彼もよくやっている。俺達仮面ライダーへの尊敬から、相応の行いを返す熱意を持った……先代とはまた別の形で、裏切れない期待を課してくる男だな」
「ノアさんがぼくたちの自分らしさに向き合ってくれたからこそ、四人で戦うと決意出来ました。戦いの外でも、色々と気に掛けてくれて……少し過保護ですけどね?」
「どのような形であれ、貴人とは庇護の精神を身に着けて育つものだからな。──話は変わるが、深水。河津桜という桜を知っているか?早咲きの品種だ」
「いえ……霞桜という遅咲きの品種なら、こっちへ出てすぐに見たことがありますけど」
「直接出向いたことはないが、こちらの山に穴場があると聞くな。その麓の川沿いに植えられているのが河津桜で、来月には咲いて一ヶ月程も花期が続く」
とても早く長く咲く全国的に希少な桜で、虹顔市でも少ない数だが見られるらしい。
この街にも花にもとても詳しい宗雲が教えてくれたことで、ここで過ごした季節にまだ空白のある紫苑は初めてそれを知った。
「鍛錬がてら見に行くと良い。長く保つ花だからな、四人で連れ立って楽しめるし……その前か後に、二人きりでも楽しめるぞ。帰って来たら、蒲生に教えてやれ」
ふ、と大人の余裕ある笑みを見せられる。言葉へ籠めた意図を技術的に隠されてもいないので、しっかり感じ取った紫苑の頬が少し赤くなった。
やはり情報集積のプロである先達を家に入れてしまえば、口に出していないようなことでも読まれてしまう。別段、必死に隠したいことでもないのだが。
「……気付いたこと、蒲生くんには黙っていて貰えれば。急に言われると、かなり動揺しそうなので……」
「だろうな、弱みを晒すまいとする質なのは見れば分かる。つまりそれだけ、お前との関係を重んじていると言うことだが──若さを差し引いても、情の深い男だな」
「ぼくも、そう思います。彼のそんな所に勝手に支えられて、だから返ってくるとも考えていなくて……それなのに、いざ返ってくれば想像よりもずっと嬉しくて」
つい、手の動きを止めてしまいがちになっていた。相手はそんなこともなく、ただ内心がそのまま零れた言葉へ耳を傾けている。
折角の機会なので自分がこの道から離れたくない理由を、具体的に示しておこう。柔らかで強かな性根が、そのような発想をした。
「あの心は、誰にも裏切られて欲しくない。あの熱意を守るためなら、何でもしたい。最初より更に強くそう想っているから、ぼくはこの四人でこそ戦いたいんです」
「そうか……ああ、こうして話すことでよく分かった。深水、お前は確かに夢を売るには向いていないな」
多くの人を一時だけ惹き付けることが生業だから、人に本気で惹かれていると示す言葉も誠心誠意受け止める。
深く頷く宗雲の心からはそのような人柄が感じられ、クラスのメンバーに絶大な信頼を寄せられる器の有る人だと紫苑も改めて納得した。
「さしずめ、青い炎か。お前の愛は静かだが、自分の全てを熱に換えて暖め続ける類のようだ。献身と言うには熱過ぎる、生半可な器なら熔かし尽くしてしまうだろう」
「そんなこと、初めて言われました。……でも、そうですね。ぼくは、ぼくのような『欠けた』人間は、愛した人へどうしてもそうしてしまうんだと思います」
器そのものに欠落があるから、裡に抱いた愛情を際限なく注いでしまう。
一部欠けているだけで他は当たり前の心だから、それは愛した心を傷付けかねないことだとも解っていた。
人間らしい懸命さを何より輝かしく想うから、損ないたくなどなくて──そうなら何も返って来なくていいと、恋が始まった途端に諦めてしまう。
二年限りで消えるものとして抱え続けた感情は、詳しい大人が言語化すればそうした表現になるんだなと思った。
「極めて惜しいが、そういうことならお前の勧誘は止めておく。その愛を受けて真っ向から返すことを重い選択として取れる器だ、双方のためにも引き離したくはない」
「ありがとうございます、宗雲さん。教えてくれた河津桜、咲いたらきっと見に行きますね」
「その頃に、お前達の手が空いていればな……俺は今のエージェントにも恩があるから、彼の案じる後輩へ多少のお節介ぐらいは今後も焼かせて貰いたい」
昼下がりの台所で、そのような他言無用の会話を交わす。
準備期間中に大切なレシピノートが手元から消えて、無事に戻って来たのも宗雲がその手腕を振るってくれたからだった。
後で聞いた話によると、餅つき大会が終わって最後に結局慈玄も「大切にしろ」と言われたらしい。今回世話になった先達のお節介に、二人で感謝している。
劣等感に苛まれた二年を越えた今、多くの人に助けられてきた。自分もまた多くの人の心を、恋した輝かしい心をこれからも助けようと、紫苑は決意を新たにしている。
「……この衣装をまた着る機会があるとは」
「だな!ナイトパレードに出て欲しいって依頼があるなんて思ってもみなかった!嬉しいよな!」
平穏だった年末年始を皮切りに、また多くの困難を経験した。
依頼も戦闘も度重なり、全て瑕疵なく尽くそうと力を振り絞り……四人それぞれ、心身の疲労が蓄積してしまってもいて。
中でも自分達以上に気掛かりな状態が見て取れた仲間の様子を見かねて、リーダーである陽真が休むために遊園地に行こうと提案している。
しかしその先で一際大きな動乱が起こり、合わせた力を出し切らなければならない戦いにも身を投じた。
それでも、切り抜けられている。焦燥感に惑う才悟が立ち直れたことで、カオスワールドを開いた人を救い皆で無事に現実へと帰還出来た。
慈玄が提案した紫苑と連携する切り札も、その時に初めて実戦で成功させられている。温存した余力も一気に使い果たす大技を、本当に会得することが叶った。
「……依頼として引き受けたからには、きちんとやり遂げるぞ」
苦境が続いたのは半月程度にも関わらず、とても長く感じる程に忙しかったけれど……乗り越えればまた、余裕を取り戻すことも出来ている。
遊園地スタッフの欠員埋めを引き受けた経験を今後に活かそうと、上手くやれなかった風船アートの練習や興味が深まったわたあめでパーティーもした。
そうしていた後日、もう少しで教えて貰えた早咲きの桜の時期かという頃。あの遊園地から仮面ライダー屋に、今度はナイトパレードに出て欲しいと依頼されている。
あの死闘は現実に知られることなく終息させられたが、休むつもりが結局受けることになった仕事もきちんと評価されていた。
平和で賑やかな場の催しということで満面の笑顔になっている陽真だが、パレードのキャストとして一般客へ見せる表情作りに四人中二人は適していない。
「偽物の笑顔はきっとお客さんにも伝わっちゃうし、楽しもうって気持ちが大事だよ」
笑顔を無理に作らなくても単純に楽しんで、と陽真が言っても生真面目な慈玄は難しい顔をしている。
前から意識して笑おうとすると逆に子供が泣くことに困っていた彼に、紫苑はそう助け舟を出した。首を捻っていた才悟も、その横で頷いている。
事実として、ナイトパレードは無事観に来た一般客にとても喜ばれて終わりを迎えた。陽真は全力で嬉しそうにしていて、才悟も無表情ながら感じ入っていたようだ。
「さっき、老夫婦から『毎年ここに来るのを楽しみにしている、楽しませてくれてありがとう』と礼を言われてしまった」
いつも通り固い表情で努力すると言っていた慈玄も、ちゃんと人々を楽しませられている。
そう言っていた時も、今度は客として来ようと約束した時も、顔には出さずに喜んでいて。その心を密かに感じる紫苑は、胸が暖かくなる気分で満たされていた。
茨の道を歩む身であっても、意志を以て進んでいれば多くの思い出が得られる。そうしてまた目の前のことに努める日々を過ごせば、寒さのピークも終わっていた。
「見ろ、深水。あれがその河津桜じゃないか?」
「本当だ。数はやっぱり少ないみたいだけど、二月に桜が咲いてたら目立つし綺麗だなぁ……」
忙しい合間に空き時間を作った昼のこと。角部屋に住む二人は今、以前聞いた辺りへ出向いて鮮やかなピンク色を見つけている。
山の麓の川沿いまで、よく晴れた日に歩いてやって来た。まだ空気は冷たいが、体を動かしていれば気にならないくらいの時期となっている。
仲間で友人の二人は依頼があると聞いているので、いち早い花見は慈玄と紫苑の二人だけで行くのを先にした。
「伊織くんと魅上くんも、この景色を見られたらきっと喜ぶよね。一か月は咲くそうだから、来月でも早い内なら間に合うし」
「その後は街の桜も咲いてくるから、少人数でなら長期間に渡って花見が出来るんだな。……本格的なシーズンと違って、今なら花粉も少ない」
遠出しただけあって、周囲には他に誰も来ていない。
日差しの暖かさと風の冷たさを一緒に感じながら、暫く春寒の桜並木に沿って並んで歩く。
「……蒲生くん、ちゃんと桜見てる?地面じゃなくて前見ないと危ないよ」
「分かってて言ってるだろ深水……悪かったな、未だにデートとなれば緊張して……!」
同居人には収まらない関係まで進展しても、照れ屋な慈玄は二人きりで静かな場所に居るとどうもこういう風になりがちだった。
鍛錬を兼ねて徒歩で来たと言っても、恋人と依頼に関係のない花見をしに行く意味はしっかり分かっている。
まだデートらしいデートを慣れる程の回数は重ねていないのも事実なので、そう言う紫苑もそれなりに落ち着けていなかった。
「この辺りでいいかな……うん、そんなに冷たくない。うちの畳もそうだけど、ゴザって意外と寒さに強いよね」
「空気を含んでいるからだな。貰い物だから、四人座るには少し小さいが」
今回持って来た小型のゴザは、お年寄りに好かれやすい慈玄が依頼先で頂いた物だ。
古くても綺麗で、大事に使われていたと分かる。そうした人の丁寧さが伝わる品を見ると、彼はいつも小さく微笑んでいた。
広げたゴザに二人で座り、紫苑が前日から用意していた花見弁当を開ける。時期柄に併せて、水筒には温かい緑茶を入れていた。
「……!かつ重か。何か揚げていたから、唐揚げだと思ってたぞ」
「ふふ、それは他の機会にいっぱい作るね。今回は蒲生くんの好きな物を中心に仕立てたかったんだ、……デートなんだし」
「分かってるから、強調しなくてもだな……!お前の好きな物も入れれば良かっただろ、それなら」
「ピラフととんかつとナポリタンを全部一緒に盛った、トルコライスってご当地料理もあるんだけどね。その辺りは他のおかずにしてるよ、ラタトゥイユとか」
早咲きの桜を見に行こうと話した時から、綺麗に晴れる日を楽しみに待っている。
何を作るかは当日まで内緒ねと言われたからと、律儀で生真面目な慈玄は台所を見ないようにしていた。
気にはしている様子が見て取れたから、重箱に詰める料理を作る紫苑は微笑ましく思っている。この生活を始めて以来、彼の印象は本当に大きく変わった。
「小松菜のおひたしも、うちで採れたので作った時気に入ってたよね。市場で良いのを買って来たんだ」
誰にも気を許そうとせず、それなのに誰をも気に掛ける。そんな姿が角部屋で二人過ごす内に、日常の安らぎを享受出来るようになっていった。
変わったけれど、変わっていない。全てに真摯な姿勢は今でも度々余裕を欠くけれど、根幹の懸命な優しさを損なわずに心を和らげている。
その事実を間近で見て感じられることが、紫苑の大きな楽しみになっていた。こればかりは、自分よりはっきり気付ける者もいないと自負出来る。
「見てばかりいないで、お前も食べていいんだぞ。今日の料理も、どれも旨い」
「うん、ありがとう。美味しそうに食べてくれてるから、凄く嬉しくなっちゃって」
きっと、本人だって気付いていない。そんなこの生活を始めて見つけた表情を、また目にしたのが嬉しくてならなかった。
気を抜かないことを良しとする心が本当に安らげている時、本当に美味しく思う好物を口にした一瞬。そんなたまの機会だけ表れる、紫苑の密かに好んでいる表情を。
いつも険しかったり神妙で、時々穏やかに微笑む顔がその一瞬にはとても明るくなる。喜ぶ心を余す所なく、年相応に顔へと出してくれる時が楽しみだった。
蒲生慈玄が疎んでいた自分の喜びへ素直になる時が、それを伝えてくれる表情が、この日々を過ごしていたらいずれも大好きになってしまって。
その中でも特に希少な顔を見たい一心で、紫苑は初めて二人で行く花見の準備に勤しんでいる。本当に短い間だけ表れるから、もう収まってしまったけれど。
「……本当に。よく笑うようになったな」
そんな理由で気合を入れただけに、今日のかつ重は自分でも会心の出来だと思える味だ。
風の冷たさが気にならなくなって、ぽかぽかとした暖かさばかりを感じる。心から嬉しくて楽しい気分で箸を進めていた紫苑も、ふとそんなことを言われた。
今度は時々見られる穏やかな笑みを向けられて、それもまた好きだから不意打ちで頬が熱くさえなる。
「そう、だね。戦っているから、辛い時も苦しい時もやっぱりあるけれど……好きなことを出来るのは楽しいし、好きな人と過ごせるのが嬉しくて」
「俺が来た時から、ずっとそうだったなら…………調子が狂うようにもなるよな」
照れ屋は恋人から聞き出すまで難航したけれど、紫苑は少し前に「いつ好きになってくれたのか」の回答を得られている。
気付いたら目にする笑顔を意識してしまっていたので、正確にいつかとは答えにくかった。少なくともあの誕生日を祝われた夜が、恋心を自覚した切欠だったと。
「いや、あくまでお前の人柄と言うか、その向上心は見上げられるものだと知ったのが主体であって……決して笑顔一つに惚れた訳じゃ……!!」
「分かってるよ、蒲生くんのそういうとこが好きで楽しくなっちゃうことも多いし。……本当に。本当に、ぼくは今が楽しいから笑ってるんだ」
真っ赤になっている顔から少し視線を移して、頭上の桜を見る。
現実で生きて戦う術を掴まなければ、早咲きの桜を知る機会も得られなかった。
この景色は春から冬まで季節が巡る中で、多くの困難を乗り越えてきた証だ。実るなどとは思っていなかった恋と共に、ここまで来られた実感が湧いてくる。
「そうだから、先のことも楽しみに出来る。今度は四人でここに来るのも、まだ見てない街の桜でお花見するのもいいし──」
「ここや街の桜が終わったら、山の桜を見に行くのもいいな。その時は、場所を知っているお前に案内して欲しい」
え、と小さな声が出た。真っ直ぐに、真摯に、ごく自然にそんなことを言われて。
考えてみれば、あれからまだ丸一年は経ってない。だけどあまりに多くのことを経験したから、もう随分前のことのように思ってしまっていた。
「…………蒲生くん、覚えてたんだ。あの時のこと」
「ああ。霞桜という名前だったか、俺も桜は全部散ったものとばかり思っていたから印象的だった」
「そっか。ねえ、もう一度あの写真見る?」
ライダーフォンに保存した思い出の写真も、あれから沢山増えている。
その中でもほぼほぼ一番古い霞桜の写真を、久し振りに表示した。遅咲きの桜がまた咲くのは、あと二か月ぐらい先のことだろう。
「今見ても、綺麗だな。……写真でこう綺麗だから、実物も見てみたかったんだ」
「じゃあ、楽しみにするね。あの時は一人だったけど、今度は二人でも四人でも……他にも穴場がないか、ジョギングついでに探してみようかな」
画面を覗いて懐かしそうに綻ぶ横顔に、紫苑の胸が暖かく揺れた。
少し前のこと、バレンタインに依頼先のおばあさんからチョコを貰ったと報告してきた顔を思い出す。
見るからにむず痒そうにしていて、その中に嬉しい気持ちが混ざっていて──虚像の中で砕けかけていた心を守ったあの時と、その表情はよく似ていた。
「俺も、楽しみにして……いや、その、少し違う。…………俺も、深水。お前と過ごすのは、楽しいと思っている」
言った直後にばっと顔を伏せてしまったから、また笑ってしまう。
照れ臭くても真摯にそう伝えてくれる彼なので、チョコのお返しも何が良いか真剣に考えるんだろう。
懸命で生真面目なあまりたまに迷走するし、恋人を名前で呼ぶタイミングもきっと掴めないでいる。そんな不器用な心が、やっぱり輝かしいと想った。
伏せた顔を上げた慈玄は、また真っ直ぐに紫苑と向き合う。ペリドットの眼差しはあの頃と同じく真剣で、だけどあの頃のように刺々しくはなかった。
「これから起こることは、決して楽しいことばかりじゃねえ。それでも俺はお前が笑って一日を終われるように、今後も鍛錬に勤しんでいきたい」
言い切られたのは、互いに分かり切っているからだ。奪われた過去に何があったのか、まだ互いに何も本質を掴めてはいない。
それを取り返した時、この欠落した心はどう動くのかも分からない。愛した輝きに何があろうとも怒れなければ、また軋みが苦痛をもたらしてくるだろう。
この視界から明るい彩りが失われて、何もかも灰のように崩れてしまう可能性さえあるけれど──例えそれが現実となっても、再び絶望するとまでは思わない。
この
かつて自己否定に基づいてしか持てなかった希望を、深水紫苑は今やそれ程に自分を肯定する形で抱けるようになっている。
「……ありがとう。そう言ってくれる君の心が、ぼくは大好きだよ」
心からの言葉に、心からの言葉を返した。
そんな二人きりの静かで暖かい時間の中、花見弁当も片付いたのでまた早咲きの桜が咲く下を歩く。
ありふれた『綺麗だ』と思う心を、ただそうして交わした。束の間の平和をそうして過ごす幸せは、違う形の心同士でも同じくらいに感じられる。
「帰るか」
暫くそうしていたら、不意に小さな声を共に手を取られた。伝わる体温はじんわりと熱く、紫苑も手を握り返すことで応える。
帰路に着きながら、様々なことを考えた。秋に種を蒔いたビオラの花は明日にも満開になりそうだったし、野菜もそろそろ新しい物を育てたい。
玄関先に置いた観葉植物も、これからより生き生きとするだろう。虹顔市で迎える二度目の春の終わりが過ぎれば、アガパンサスの青い花もまた咲く筈だ。
きっと今年の誕生日は、ちゃんとジャスティスライドの全員で祝える。今度は自分が主導してサプライズ返しするのもいいかもと、弾んだ気分で考えていた。
「────深水」
今年は去年と違って、毎日を残さず恋人として二人角部屋で暮らしていく。仲間で友人の二人もまた何度となく呼ぶだろう。
そう思って歩く紫苑の耳に、また好ましい声が届く。少しだけ目線を下にして覗き込む彼は、何か逡巡してから首を横に振った。
「……いや、悪い。幾らしたくなっても、往来で……は駄目だ。帰ったら、させてくれ」
そう言う視線と心が自分の唇に向いているものだから、今回ばかりは相手よりも顔が赤くなってしまったと自覚する。
律儀で真摯で生真面目にずれた気質からは、たまに大分恥ずかしい言動が飛び出した。それに毎回、どうしようもなく揺さぶられてしまう恋をしている。
「いいよ。……楽しみにするから、一回で終わらないでね?」
だからちょっと挑発的な返しもして、現金な心持ちで期待を募らせた。何でもなくありふれたごく先のことを、あまりに喜ばしく楽しみに思う。
そんな心を繋ぐ二人で共有した帰る場所の光景が、積み重ねたありのままの記憶の中で鮮やかに煌めいていた。