テーマ:梅雨
たたの 様
『ヘアアイロン、まだ買わなくてもいいかな』
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深水紫苑は梅雨の時期が、あまり好きではない。
ぱちり、と気持ち良く目覚められないのは梅雨独特の湿気がするからだった。
築40年以上経つこのアパートは、良くも悪くも外気の影響を受けやすい。それ故に天気が晴れか曇りか、はたまた雨なのか、起きた瞬間にある程度の見当が付くのであった。
嫌な予感がする。
朝はまだ早いが独特の暗さと湿気が、今日は雨だと物語っている。昨日の予報では今日から一週間は雨が続くと言っていたのを思い出し、紫苑は開きかけた瞳を一度閉じてから、今度はゆっくりと薄目を凝らした。見知った天井が、どんよりと一段暗く見える。
何とか布団から起き上がると、はあ、と生温い溜息が零れた。隣の布団の慈玄はまだ規則正しく眠っており、その変わらぬ姿にほっと胸を撫でおろす。よかった、規則正しい生活をする同居人は、まだ起きていないらしい。
「うわあ……、」
音を立てないようにベッドから抜け出し、洗面台へ向き合うと─…紫苑の考える、嫌な予感は的中した。
ぐにゃりと不自然に曲がる髪の毛に、思わず声が漏れる。洗面台に置いてあるブラシでひと通り梳いても、そのうねりと跳ね方は収まらない。
紫苑の髪の毛は─…癖毛だ。この時期、決まって憂鬱になる程度には。
紫苑の一日はキッチンに向かうその前に─…洗面台と向き合う事から始まる。料理と向き合う前にひと通り自分の身なりを整えておこう、という紫苑なりのルーティンだった。しかしこの時期はそれがなかなか上手く行かない。
それもこれも、全て紫苑の髪質の所為だ。
アカデミーから脱出してこのアパートで暮らすようになってから、紫苑は自分の髪の毛が癖毛である事に不意に気が付いた。ずっと付き合って来たもののはずなのに、不思議とこの街に辿り着いて梅雨の時期を迎えるまでは、そんな事にも全く気が付かなかったのである。記憶を遡っても、アカデミーやそれ以前では気にした覚えはなかったはずなのに。
何故そんな事さえ今まで気付けなかったのか─…紫苑の中で結局答えは出なかった。もしかしたらアカデミーでは戦闘以外の余計な事をなるべく考えないように、そう言った何気ないものを気に掛けないような催眠効果や、環境の固定化がされていた可能性もある。アカデミー以前の記憶が改竄されている事も理由のひとつかもしれない。
それでもずっと自分と、付き合って来たものだ。紫苑をはじめアカデミーから脱走した5期生のメンバーは、記憶の拠り所がふつうに生きて来た人よりはうんと少ない。特に紫苑はその所為でその頃から変わらないものを、人より深く思ってしまう傾向にある。例えばアカデミーの頃から変わらない同居人の暮らしや、仮面ライダー屋として、そしてジャスティスライドとしてあの頃の同級生と変わらず一緒に居られる事が。変わった事は勿論たくさんある。けれど変わらなくて良かったものも、同じくらいある。
だから髪質に合わせて思い切り髪型を変えようとか、今の長さを切ってしまおうとか、そういう風に思うほど自分の髪を嫌いにはなりきれなかったのだ。
けれどまあ、それはそれで、これはこれだ。
とにかくそういう人らしさと引き換えに、紫苑は自分の髪の毛と不仲になったのである。
歯を磨いて顔を洗ってから、改めて鏡と向き合う。
うねりの強い髪質は湿気の多い時期、特にいう事を聞かない─…だから癖毛を気にするようになった紫苑はこの時期、普段よりも早く起きてまで、自分の髪の毛と向き合うようにしている。
以前美容室に行った時、癖毛がウェーブ状になっていて、その波が強く出やすいのだと言われた。髪の毛のひとつひとつが細いのは、外気の影響をより受けやすいとも。
今日はまた一段と、激しい癖が付いている。紫苑から見て右は横の毛が跳ねやすく、左はうねりが強い。今まで何とか全体のバランスが整っていたので誤魔化しきれていたが、今日の天気はどうもそうさせてくれないらしい。
ここ1年の経験上、濡らしてから乾かすのも一日髪の毛の状態を保つ程度の効果は無い事は分かっていた。何より乾かす時に大きな音を立てると、同居人である慈玄が起きてしまう。築40年を超えるアパートは部屋どころか、隣の部屋までドライヤーの音が聞こえてしまいかねない。
ヘアアイロンを美容室で試してみてから憧れはあるものの、明らかに自分しか使わない道具だ。二人で暮らすにあたって置き場所にも困るし、単純に経済状況から購入を渋り続けている。
なので今の紫苑が出来る事と言えば、ドライヤーの風圧を一番小さくして、なるべく音を立てないようにブローするくらいなのであった。それでさえ、少しわがままを言って以前よりも「良いやつ」を買っている。ドライヤーだってちゃんとしている方が光熱費もかかりにくい、そういう理由を付けて。
(蒲生くんにはドライヤーとか、あんまり関係なさそうだけど……)
ちら、と紫苑が視線を鏡から外す。視線の先には未だ寝息を立てて微動だにしない、慈玄の姿があった。
改めて生活を共にして感じたのは─…慈玄の髪質が、非常に素直だという事だった。
アカデミーから今まで、慈玄の髪型が崩れている所を紫苑は見た事が無かった。
当然、単純に短いからというのもあるだろう。けれど本来癖毛は軽ければ軽い程出やすい。目に見えてそういうものがない、真っ直ぐな髪の毛だった。しかもそのひとつひとつがボリュームを持って真っ直ぐに下がっていく。浴室から上がって髪を乾かす時も、ものの数分熱風を当てればいつもと寸分違わぬ、あのスタイルが出来上がる。
狩り上げているのは顔周りに当たるのが嫌なのと、髪の毛の量を感じやすいからとも言っていた気がする。髪の毛が細くて頭のてっぺんのボリュームが出難く、逆に左右に広がりやすい紫苑にとっては羨ましい話だ。
初めて髪の毛に触れた時、自分との余りの違いに驚いた程だ。その強く真っ直ぐな髪の毛がまるで、慈玄そのもののようで。
「良いなあ……」
ぽろ、と零れた言葉はドライヤーの音に掻き消されて届きはしなかったものの、紫苑自身には突き刺さる。羨ましいのだ、自分のとは違う慈玄の髪質が。
「熱っ、」
そうやって余所見をしていたからか、ドライヤーを一か所に当て過ぎたらしい。慌てて指を離すと、その熱の甲斐無く髪の毛はブラシをかけた所から戻っていく。それを鏡越しに見て、自分の眉が寄るのが分かる。
そうしている自分が馬鹿馬鹿しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになってしまう。
屈折して思い通りにならない髪の毛が、まるで自分そのもののようで。
「おはよう、早かったな」
「あ、蒲生くんおはよう。ご飯もうすぐ出来るよ」
慈玄のその声を聞くとようやくいつも通りの朝になったのだと、紫苑は心から安堵する。
自分の髪質に一応区切りを付けてキッチンに向き合うと、その時間は無心になれる。手を洗う時の水の冷たさ、包丁が具材を刻む音、味付けに違わぬ湯気の匂い─…それらを感じると頭の中が切り替わる。ここに居てやるべき事があるのだと、そういう気持ちにさせられる。
けれど今日は声のする方を向くと、その視線がいつもと違う事に気が付いた。
「うん、どうかした?」
「いや……別に、」
慈玄は露骨に紫苑から視線を外す。そうしてキッチンをすり抜けて、その奥にある洗面台へと向かうのだった。
(蒲生くん、相変わらず嘘吐くと分かりやすいな……)
何もないというのは嘘だと、紫苑には分かる。慈玄の視線は明らかに紫苑の髪型に向いていたから。
それを指摘されるのが嫌で慈玄は咄嗟に視線を逸らしたのだと、紫苑は同居人の心に触れてしまった。心を感じる能力とはその人の視線の運びや眉の動き、声色の掠れやその大きさでその人が何を思うのか、機敏に感じ取ってしまう能力とも言える。もっとも慈玄は、相手が紫苑でなくともそれが分かり易い方ではあったが。
結局あれからきちんとした生活を心がける紫苑が丁寧にブローをしても、限界があって─…有り体に言えば紫苑の髪の毛は湿気に負けて、どうにもならなかったのだ。
どうしようもなくなった紫苑は餅つき大会の時に使ったヘアゴムの残りを使って、髪の毛を結ぶ事にした。あの時は用意された和服に合わせて低い位置で結んでいたけれど、紫苑にとっていま一番重要なのは湿気でまとまらない髪をどうにかする事だ。ぐにゃりと広がる後ろ、そして外側の髪と、まとまらない耳の周りが特に気になる。それらをまとめて結んでからくるんと毛先を内側に回す。たしかハーフアップだったっけ、と紫苑は結んだ部分を指先で触る。
ヘアアレンジについてはそこまで明るくないが、紫苑にとっては今日、これが一番楽だった。下を向いても顔の周りの髪の毛が落ちてこないので料理に集中出来た。普段なら耳に掛けるだけで大人しくなる髪の毛も、この時期はそうはいかない。それが小さな困りごとになっていたのに、紫苑は髪を結ってからようやく気が付いた。
(そんなに変だったかな)
だから紫苑にとってこの髪型は─…慈玄が目を見開くような、決してそんな大袈裟なものではなかったはずだった。だからだろうか、慈玄の心を感じ取ってはいるのに、その表情がどうしてなのか分からない。
ちょっと驚いたような顔を一瞬してから、その髪の毛がどう結われているのか確認するようにじっと目を凝らす表情が不思議と忘れられない。
かちゃり、と棚から出した食器が触れ合う音がする。昨日の残りの煮物と、昨日から漬けておいたほうれん草のお浸しと、松之助の働く市場で買った鮭の切り身を焼いて、出し巻き卵と季節の野菜が入った味噌汁を作る。紫苑にとってはこれが苦痛ではなかった。寧ろ心の安らぐ、一日を始める前の儀式─…ルーティンのようなものだ。そしてそろそろ茄子の入った味噌汁の時期だなあ、と作りながら次の季節の事を思うのが、紫苑は結構好きでもあった。
それらを当たり前のように机を挟んで、慈玄が食べているというのも。
不思議なものだ、アカデミーに居た頃は張り詰めた空気が時々怖く感じるくらいだったのに、あの頃は管理された食事から隠れるようにして自分の料理を食べていたのに。
その頃からずっと、自分の作った食事を食べて貰えて嬉しかった。どうして嬉しかったのか、その理由が今なら分かる。
視線を上げると、はっきりと視線が交わって─…すぐに逸らされる。その視線がやっぱり、普段とは異なる毛先の流れを見ているのが分かった。
「この髪型、そんなに変かな?」
「は?」
「だってずっと見てるから」
味噌汁をすすりながら紫苑がそう尋ねると、慈玄の箸が止まる。ついさっきまで視線を真っ直ぐに紫苑の方に向けながら、大きな口を開けて白米を運んでいたのに。いつもはもっと食べる事そのものに集中しているはずなのに。慈玄に髪の毛の行く先ひとつひとつを見られているような、そんな感じがしてしまう。
まじまじと見るような髪型でも、髪質でもない。どうにもならないうねりは普段よりちゃんとしてないように見えただろうか。
だってしょうがないんだよ、蒲生くんみたいに素直な髪の毛じゃないから。いっそそう言ってしまう方が、楽なんじゃないか。
「……いや、その。似合っている」
紫苑がそう言う前に慈玄が顔を隠すようにして、小さな声でぽつり、と呟く。
それを聞いてから─…自分の髪の毛が嫌だからとあっさりと流さなくて良かったと、紫苑は心から安堵する。そうやって勝手に諦めてしまっていたら、決して聞こえない声色だっただろう。
「雰囲気が違うから、良いなと思っ……とにかく、変だと思わせたならすまなかった」
歯切れの悪い言葉を無理やり切り上げて、慈玄は茶碗を持ち上げてがつがつと白米を口に運んだ。それを紫苑は、ぼうっと見つめる。
きっと慈玄は知らないのだ。紫苑が自分の髪質に悩んでいる事も、今している髪型が日々を過ごすにあたって苦肉の策である事も。もしかしたらこの時期やたら朝早く起きている事だって知らないのかもしれない。
けれど慈玄の言葉に嘘は無かった。心を読まないでも分かる─…嘘が無くて心地好いと感じるようになったのはこのアパートで過ごすようになってから。変わったのは自分と、そして彼自身も。
本当にただ何かの気分でヘアスタイルを変えて、それが良いと思っている。ただそれだけの声色で、表情で、耳まで赤く染まる体温だった。
それが紫苑にとって、すごく良かった。
慈玄の反応を見てようやく、紫苑が俯いてくしゃりと自分の毛先を触る。自分で結った髪の流れを指先でなぞる。いつもと違う跳ね方を、うねりをしている。どうしようもなく嫌だったはずのものが、すっと軽くなってしまう。
湿気が嫌いでどうしようもなくて結んだ髪の毛を、その理由も聞かず綺麗だと言うような。咳払いをしたきり俯いて、ずっと恥ずかしそうに、いつもより速いスピードで朝食をたいらげるような。
そういう同居人の─…慈玄の事が、どうしようもなく好きだと思ってしまう。
深水紫苑は梅雨の時期が、あまり好きではない─…はずだった。そのはずだったのに。
なかなか指先が箸を持つのに戻らなかったのは自分の心が単純な事を実感して、恥ずかしくなってしまったからだ。
「じゃあ、これから時々しようかな。この髪型」
「……良いんじゃねえか」
窓越しのしとしとという音と、丁寧に扱って尚鳴ってしまう食器が重なる音と同じくらい、互いに小さな声だった。けれど小さくてかけがえない空間がそれを聞き逃す事はなかった。
ようやく視線を食卓に戻した紫苑を見計らって慈玄がもう一度紫苑の髪の毛を真っ直ぐ見つめる。そうしていると毛先がくるんと、紫苑の知らない跳ね方になっていた。その遊んでいるのか、踊っているのか分からないような毛先が慈玄にとっては触れたいくらい魅力的に思える。けれど触れたらくずれてしまいそうだったので、紫苑に気付かれる前に視線を逸らすのだった。
紫苑はその視線と、ほんのすこし心を感じながら─…満足そうに目を細めて、味噌汁をすすった。
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(読んでいただきありがとうございました)
(時々異常にハーフアップが好きな人っているよな…と思いながら書きました)